北京
PM2.577
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中国東北地方の一寒村で春夏秋冬を送ったころの筆者(前列中央) わたしは一九六五年の大晦日を、朝鮮との国境に近い中国・東北地方の一寒村で迎えた。中国の農村を知り、農民を知ろうと、ここで農民と同じ屋根の下に住み、同じ仕事をし、同じものを食べるいわゆる「三同」の生活をしていたのだ。 中国では、お正月を「春節」といって旧暦で祝う。私の住んでいた村でも、新暦の大晦日であるこの日はまったく平日通りで、ごくごく静かにすべてが動いていた。その日が大晦日だと気がついたのは、灯油ランプを消してオンドルに横になってからだった。 「そうか、今日は大晦日だったのか」。寝床の中でそう思うと、行く年のあれやこれやが走馬灯のように頭をかすめ、来る年のあれやこれやに希望がふくらむ。 ****** 同じ屋根の下、1メートルほどしか離れていない向かいのオンドルから聞こえてくる王おじいさんと張おばあさんの心地よい寝息をバックミュージックに、頭に浮かんだ行く年の最大事は、大都市の北京を離れてこの一寒村に来たことだった。「中国の農村を、農民を知らない者に、中国を語る資格はない」と言った先輩の言葉が、わかりかけてきた数ヶ月だった。 慣れない農村での暮らしだったが、王おじいさん、宋おじいさん、張おばあさん、馮さん、劉さん、江さん・・・・・・、村の人たちのやさしい心に包まれて、なんとか無事に過ごしてきた数ヶ月だった。あれやこれやの失敗を繰り返しながら・・・・・・。本当にありがたいことだ。、村の人たちのやさしい心は、一生忘れられないだろう。 ここで私がお世話になっていた農家の王おじいさんのつれ合いの張おばあさんは、自分の息子のように私を大事にしてくれた。 ここの冬は膝までの深い雪に覆われ、零下三、四十度という日もあったが、張おばあさんはいつもオンドルの一番暖かいところに私の布団を敷いておいてくれた。 春になると、張おばあさんは雪の残る山に登って、ワラビを摘んできて、自家製の味噌を添え、朝食に出してくれた。「おいしい」と言うと、山にワラビが無くなるまで、毎日、毎日、ワラビの味噌あえを食べさせてくれた・・・・・・。 |
****** 大晦日の夜、東北の一寒村で思った来る年の最大事、それはなんといっても子供の誕生だった。流産しかけた家内は、大事をとって北京の協和病院に入院して出産を待っている。ひたすら、母子とも無事で安産であるよう祈った。表では雪が降りだしたのか、静かな夜だった。 翌年の三月二十七日、男の子が生まれた。わたしたちにとって、最初で、最後の子供、つまり一人っ子である。 父親は、わたしたち五人兄妹の中から一人くらい医者になってもらいたいと思っていたらしいが、この夢は実現しなかった。大晦日の夜の寝床のなかで、やがて生まれる子供が、父親の夢を稔らせて医者になってくれればなと願ったのを覚えている。 ****** 紆余曲折はあったが、多くの人たちに支えられ、励まされて息子は医者になった。ありがたいことだ。まだ駆け出しの半人前だが、患者にやさしい医者だという評判を聞く。親馬鹿だろうが、嬉しいことだ。父親も天国で喜んでくれていることだろう。 毎年やってくる大晦日の夜、わたしは寝床に入るといつも、この東北地方の一寒村で過ごした大晦日のの夜のことが頭に浮かぶ。そして行く年を振り返って、お世話になったあの人、この人に感謝し、来る年のあの夢、この夢に胸をふくらませる。これが、いつしか年越しに欠かせないわたしだけの布団のなかでのセレモニーとなっているのだ。王おじいさんと張おばあさんのあの心地よい、懐かしい寝息は、このセレモニーのオープニングソングとなっている。 |