周総理・日本語放送・「文化大革命」

2018-06-20 10:32  CRI

周総理・日本語放送・「文化大革命」

 「文化大革命」前の周恩来総理は、放送設備の視察でスタジオを訪れたり、三階の会議室の会議に出席し発言したり、さらに六階の資料室のホールで開かれた労働組合・青年団主催の週末のダンスパーティーに、陳毅副総理と一緒に姿をみせたり・・・・・・、何回も復興門の放送ビル(現在の放送映画総局ビル)を訪れている。だが、どうしたことか、"文化大革命"の十年には、周総理の姿を放送ビルで見掛けたという話を耳にしたことはない。

 周恩来総理は、姿こそみせなかったが、その智恵と勇気で、万難を排し、いろいろのチャンネルを通して、わたしたち日本語部のスタッフを導き、励ましてくれた。そうした幾齣かを思いつくままに綴ってみよう。

 日本の状況に適応すべきだ

 1971年から1972年にかけて、日本では「以民促官」(民間の力で政府を促す)で、日中国交正常化を実現しようという動きが高まっていた。こうしたなかで北京を訪れる訪中団も増えたが、周総理は忙しいスケジュールをさいて、できるだけ日本からの訪中団と会うようにしていた。時計の針が夜十二時を回っても、熱のこもった話しあいが続くこともあった。こうした話しあいのなかで、周総理が二回直接北京放送の日本語番組に触れたことがある。

 一回は1971年1月11日に日中友好協会(正統)労働者学習訪中団と会ったときだ。この団の団長神田正男さんはベテランジャーナリスト、北京放送の熱心なリスナーで、団員のほとんどが北京放送を聞いたことのある人だった。そこで、話題はごく自然に北京放送の日本語番組のことになった。こんなやりとりもあった。

 周総理:「われわれの日本語放送はどうですか。」神田:「中国の放送は私たちにとって、大変役立っています。しかし、私たちの学習が足りないので、一部の問題は認識が追いつきません」周総理:「あなたたちの認識が追いつかないのではなく、私たちの認識が追いつかないのです」、「放送の内容はどうですか。そちらの状況に合いますか。日本の広範な人たちは受け入れられますか。私たちの主張を押し付けるようなことはありませんか。言葉遣いは現在の日本の人々に合いますか。こうした問題はすべて、番組を作る人たちが真剣に考えなければならないことです」、「中日両国民の置かれている環境は異なり、政治条件、経済条件、すべて異なっています。実際には、私たちの編集がそちらの状況に適応しなければいけないのです」

 もう一回は、次の年、1972年6月14日に遠藤三郎さんを団長とする日本旧軍人訪中団と会ったときだ。遠藤さんは旧日本陸軍の元中将。だが日本の敗戦後、侵略戦争を深く反省し、軍国主義復活に反対し、日中友好を声高く唱えている人だ。この団に当時、北京放送局日本語部で働いていた徳地未夫さんもいた。徳地さんも旧日本陸軍の佐官(校級)クラスの将校だったが、遠藤さんと志を同じくして、日本旧軍人の会のメンバーになった人で、この訪中団に現地参加していたのだ。
席上、徳地さんが「日本語放送はとてもよくできています」と言うと、周総理は「あなたがあまり高く評価すると、私は信じられません。ここ数年、私は放送局に行っていませんが、日本語放送はいくらかいいかもしれませんね」と答える。徳地さんがさらに「リスナーの反映もすばらしいですよ」と言うと、周総理は「もし、三分の一のリスナーが良いと言えば、まあまあですね。放送の良し悪しを決めるのは、内容です。内容が日本の実情に合っているかどうか、日本のリスナーが喜んで聞くかどうかです。」

 周総理の談話は、「四人組」にかぶせられた紧箍咒に縛られる一方、先輩が残した「リスナーを大切にする」という理念が頭に離れず、そのはざまで悩み、苦しみ、格闘する日本語部員に正しい方向を指し示し、熱い勇気を与えてくれた。

 この談話に励まされた日本語部員は、厳しい環境のなかで、静かに、ゆっくりだが、しっかりした足どりで「文化大革命」前に評判のよかった「お便りの時間」「友好の広場」「中国語講座」・・・・・・などの番組を復活させた。アナウンサーは口調や言葉使いの面で、翻訳者は訳語や文型の面で、リスナーに気を配る努力に力を入れ始めた。

 リスナーは正直だ。もちろん、1972年秋の中日国交正常化という追い風もあったが、日本からリスナーの手紙は、底をついた1970年の3796通から1972年には6384通、1973年には19663通、1974年には35816通、1975年には70434通、1976年には80978通とうなぎ登りに増えていった。まさに「リスナーは神様」である。

 中国語講座の総設計師

 日本語放送の中国語講座復活についての報告は、1972年8月25日づけで、当時の広播事業局軍事管制小組から中央に提出された。

 この報告に率先して「同意」のサインをしたのは、周恩来総理だった。周総理は、この報告の上に、十三文字の指示を「批註」として書き添えている。

 周総理は、「軍管小組」の報告のなかの「初级班办完之后再办中级班」(初級班を終わってから、中級班を始める)に「在初级班继续办的情况下,并开」という十三文字を書き添え、「初级班办完之后,再在初级班继续办的情况下,并开办中级班」(初級班を終わってから、初級班を継続するとともに、中級班を併設する)と直したのである。

 周総理が書き添えたこの十三文字は、大きな面からいえばリスナーの実際から出発して番組を製作するという実事求是の精神を体現したものであり、具体的にいえば常に初心者を大切にし、初心者を最底層に置くピラミッド型の構成が、最も理想的だという語言学習講座共通の特長に留意したきわめて専門的な意見だといえよう。常に初心者に大きな窓を開いておくことは、中級講座、高級講座を成功させる構造的基礎なのである。

 周総理の十三文字の指示がなかったら中国語講座の復活があんなに順調にはいかなかっただろう。その後の中国語講座の成功も難しかっただろう。ちなみに長い間、日本語放送の中国語講座の講師を務めてきた平文智さんの記憶によると、中国語講座復活の第一課は、1973年4月だったそうだ。

周総理・日本語放送・「文化大革命」

 日本語放送空前のピンチ

 「文化大革命」初期の話、といっても「軍管会」が登場しているので、1972年12月に放送局の「軍事管制」が実施されたあとの話だ。

 「軍管会」の人が「日本語の放送は毛沢東を日本語読みして『MOUTAKUTOU』とアナウンスしている。改めるべきだ。中国の人名、地名はすべて中国語読みすべきだ」という考えをもっているらしいという「噂」が日本語部に伝わってきた。

 北京放送の日本語番組は、1941年に延安で産声をあげてから現在まで、中国の人名、地名はすべて日本の習慣にしたがって日本語読みにしてきた。これを中国語読みに変えるとなると大きな混乱が起きるのは必至だ。

 まずリスナーが北京放送を聞いても中国の誰のことを話しているのか、中国の何処の話をしているのか、さっぱりわからなくなってしまうだろう。日本語読みに慣れているアナウンサーにとっても、中国の人名、地名の中国語読みはたいへんな難題だ。中国の中央人民放送局のアナウンサーに日本の人名、地名を日本語読みしろというようなものだ。例えば「田中角栄」を日本語読みして「TANAKA・KAKUEI」と読めというようなものだ。もしも「軍管会」が中国語読みを正式に決定したら、それは日本語放送に空前のピンチをもたらすことになるのだ。こんなわけで、日本語部員は明けても暮れても不安な毎日を送っていた。

 こうしたある日、思いがけない朗報が舞い込んできた。北京放送日本語部員の不安が周総理の耳に入ったのだろうか・・・・・・、周総理の指示として、中国の人名、地名(日本人を対象とする場合)は「日本の習慣にしたがうように」と伝えられたのだ。つまり日本語読みでいいというわけだ。わたしは、飛びあがって喜んだ。その夜はすっかり安心したのか久しぶりにぐっすり眠ることができた。
ちょっとこれに似た話を、日本語の名通訳、のちに文化次官になった劉徳有さんから聞いたことがある。日本語放送ともいくらか関係があるので記しておこう。

 やはり「文化大革命」初期の話だ。そのころ中国の新聞やラジオで最もよく出てくることばは「偉大領袖毛主席」だった。この日本語の訳語は、「偉大な指導者毛主席」が一般的で、北京放送もこれを使っていた。

 だが、この訳語に異案をだす人もいたようだ。劉徳有さんは、こうしたことで周恩来総理と話しあう機会があったので、「一般には『偉大な指導者毛主席』と訳しているのですが、『偉大な最高指導者毛主席』『偉大な領袖毛主席』という案もでています」と話すと、周恩来同志はちょっと考えたあと「『偉大な指導者毛主席』でいいと思う。指導者の前に『偉大な』という言葉も付いているのだし・・・・・・」と答えたという。

 もしも、この席で周総理が明確な態度を表明しなかったならば、当時の「四人組」支配下の異常な雰囲気、下手するとあまりこなれていない日本語、しかも中国のイメージダウンに繋がりかねない「異案」の方の訳語が幅をきかし、北京放送にも押しつけられてくる可能性も無きにも有らずだったのだ。恐ろしいことである。

 北京放送を聞くよう廖承志さんに頼んだ

 1972年の初夏のある日、わたしは北京西単の民族飯店に行った。そこでばったり廖承志同志に出会った。

 廖公はわたしを手招きソファの傍らに座らせ、北京放送の日本語番組のことをいろいろたずねた。ときどきユーモアを交えて30分ほどお話しした。

 次のスケジュールが始まるというのでお別れしようとすると、廖さんは待て待てと両手を拡げ、わたしを座らせ、まじめな顔になってゆっくり言った。

 「今の対外宣伝は内外を分けない傾向が厳重だと聞いている。この問題は必ず解決しなければならない。一歩一歩解決していくべきだ。周総理から、北京放送を聞いて報告するように言われた。」①

 そのころ、「文化大革命」の勢いはいくらか下火になっていたが、まだまだ「四人組」の天下、こうしたなかで周総理と廖公がこんなに北京放送に関心を寄せてくれている。わたしは嬉しくて涙が出そうだった。

 廖公と固い握手を交して民族飯店を出ると、街は初夏の明るい太陽に輝いていた。新緑から万緑に向う街路樹の緑が美しかった。

 バスを待つのももどかしく、わたしは足早に歩きだし放送ビルに向った。一刻も早く、いま廖公と二人でおくったこの風景を、廖公の語った一言一句を仲間たちに伝えたい。この喜びを仲間たちと分かちあいたいと・・・・・・。

 ①廖承志氏は日本語と英語が達者で、ドイツ語とフランス語もできる。

ラジオ番組
10月29日放送分
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王巍