北京
PM2.577
23/19
「奮勇前進!」八十歳というご高齢、テレビに映る温厚な老紳士というイメージからは感じられない若さと力強さに驚いた。末尾の「!」は、わたしに警鐘を打ち鳴らした。 巴金さんの遺作ともいう「隨想録」のページをめくると、巴金さんは「文化大革命の悲劇を繰り返さないよう『奮勇前進』しよう」と呼びかけていることが分かる。ところが、1980年代の精神面の解放感、物質面の充足感に眼を覆われてしまったのか、当時のわたしの頭のなかでは、文化大革命について回顧し思考するという考えは、きわめて稀薄であった。 巴金さんの題詞をいただいたころから、わたしは文化大革命でともに悩み、悲しみ、苦しんだ先輩、友人、知人の訃報に接するたびに、あの悲劇を決して繰り返させてはならないと心に誓うようにしている。 正直に話そうーー巴金 「正直に話そう」(講真話)と訴え続けた現代中国を代表する作家巴金さんは、2005年に101歳で亡くなられた。 わたしは、巴金さんにお会いしたことも、お話したこともない一読者なのだが、1984年に偶然の機会から、巴金さんが東京での国際ペンクラブの大会で行う演説の原稿の日本語翻訳を依頼された。「核状況下の文化――なぜわれわれは書くのか」というタイトルだったと記憶する。 数ヶ月たってからだと思う。この翻訳のお礼ということだろう、巴金さんから「奮勇前進!」と書かれた題詞とサイン入りの『巴金散文選』が届けられてきた。当時の巴金さんは80歳、テレビや新聞で見る温厚な老紳士というイメージとはまったく違う「奮勇前進!」の四文字と力強い感嘆符に溢れる巴金さんの生活に寄せる熱情は、当時五十の坂を越えたばかりだったというのにややもすれば安逸を求めがちなわたしを鞭打った。あれから二十余年、巴金さんの「奮勇前進!」が折りあるごとに巴金さんの姿とともに頭に浮かび、わたしを励ましてくれている。 |
――― ・ ―――
例の「文化大革命」で、巴金さんは江青ら「四人組」から言語に絶する迫害をうけた。最愛の夫人も、その巻き添えで、満足に病気を治療することも許されず亡くなっている。 1976年の秋、「四人組」が倒れ「文化大革命」にピリオドが打たれると、中国の津津浦浦で堰を切ったように「四人組」批判の嵐が巻き起こった。文化大革命時代の民衆の悲惨な日日をテーマとした小説が書かれ、映画が作られ、巴金さんも憤りをこめて「四人組」の暴挙を糾弾した。だが、巴金さんは同時に、こうした「四人組」の暴政と勇敢に戦えなかった自分の弱さをも批判の的とし、これをするどく解剖し、きびしく譴責し、いつ、いかなる場合にも、正直に話し、真実を語ろうと自らにも強く求め、心ある人々を感動させた。 ――― ・ ――― 「文化大革命」では、わたしはどちらかといえば批判される側に近いところにいたのだが、「四人組」にはまったく無抵抗だったばかりか、造反派の口に合うような自己批判を書いたりしていた。できるだけ、造反派に睨まれないように振舞っていた。要するに、批判されたり、闘争されたりするのが怖かったのだ。人にも、自分にも正直でなかったのだ。 わたしは、巴金さんが『随想録』などで書いている真剣な自己批判の精神に貫かれたことばを目にして、こうした自分に顔から火がでるような恥ずかしさを感じた。また、いつ、いかなる場合にも、正直に話す、真実を語ることが、一人の人間にとってどれほど大切かを身に沁みて感じるのだった。 |
――― ・ ――― 「文化大革命」では、「ことば」の、「もじ」の、「うでずく」の……もろもろの暴力が、人に嘘をつかせ、嘘が嘘を生み、嘘が嘘を呼び、嘘の輪が津波のように、あれよあれよといううちに960万平方キロの大地を覆ってしまった。人間の弱さを感じ悲しかった。この嘘という妖怪の手で、あまたの人が痛めつけられ、傷つけられ、はては命を奪われていた。嘘をつかないが故に、ただただそれ故に人一倍痛めつけられ、傷つけられ、はては命を失った人もいた。人間の強さを感じ頭がさがった。 「文化大革命」の悲劇が再び繰り替えされないようにする「万里の長城」は、わたしたち一人一人がいつ、いかなる場合にも、一言一句たりとも嘘をつかず、よく考え、正直に話し、真実を語るよう心がけることかも知れない。わたしも、残された人生の日々を,そうした仲間の一人になれるよう努力していきたい。「正直に話そう」を座右の銘にして生きていきたい。 ――― ・ ――― 巴金さんは、日本の文化人とも正直(講真話)に話しあい、誠実に心を交しあってきた。中島健蔵さん、井上靖さん、水上勉さん、杉村春子さん……は、そう語り、そう記している。 巴金さんも、その絶筆ともいえる『随想録』の数ヶ所で、こうした日本の友との心の交流について触れている。「訪日帰来」では、その後半生、専門のフランス文学を捨て、無私・無欲、誠実・勇気の精神で日中間の文化人の心の交流に全身全霊を傾け、日中文化交流協会理事長、会長を23年務めあげた日本の優れた評論家中島健蔵さんの墓参りをし、墓前で無言の心の交流をしたときのことを次のように書いている。 「墓地は静まりかえっていた。わたしは眼を大きく見開き、中島さんの墓碑と向きあった。静けさの中から、中島さんの『さあ、われわれの友情のために乾杯!』という何回も聞いた懐かしい声が聞こえてくる。わたしの眼は潤んだ。来るのが遅すぎた、お酒を持ってこなくて残念だ……と思った。しばし墓前に佇ずみ無言の交流を続けた。そして、もう一度深く頭をさげた。酒を持って来なくてもかまわない、わたしは心のすべてをさらけだして、中島さんのお墓に掛けているのだから……と思った。」 「わたしの耳には、また中島さんの声が聞こえてきた。友人が中島さんからの伝言として聞かしてくれたことばだ。『日本の中島健蔵は、一刻たりとも君たちのことを忘れたことはない』。なにか、中島健蔵さんが傍らに立っているように感じてならなかった」 |