【第11回】スキー交流で結ばれた中日の強い絆(前編)

2018-04-19 12:41  CRI

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 中日国交正常化45周年特別企画 「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」。

 今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」を毎週土曜日にお送りしています。今回は「スキー交流で結ばれた中日の絆」についてお届けします。お相手は朱丹陽です。

 45年前の1972年9月29日、。中国と日本の間に、大きな出来事が起きました。で国交正常化の共同声明が発表され、1931年から続いた凡およそ40年間のに渡る戦争状態が終了終結しました。その後の日本ととの政治、経済、文化などの交流は、中国が間もなく迎える転換期で、に大きな役割を果たしました。特に、1976年に10年間続いた文化大革命の終了、そして2年後の78年の改革開放政策の実施という発展の節目に、日本による社会現象が起きるほど、強く推し進めました。たとえば、日本大映が制作した「君よ、憤怒の川を渡れ」の映画上映です。改革開放後、最初に一般公開された資本主義国家の映画として、そのあらすじやせりふ、俳優など今でも熱く語り継がれています。ほぼ同じ時代、スポーツ界でも大きな転換期を迎え、これに負けないほど中国と日本の間で感動的な交流話物語が生まれました。

 それは中国が1980年のアメリカレークプラシットド冬季オリンピックの参加を決定したことが始まりでした。実は今回大会このオリンピックへの参加は中国にとって非常に意味意義深いものでした。、その前の年の1979年11月に、に中国のオリンピックへ念願の復帰を果たし、念願のオリンピック試合の参加でしたたからです。この復帰の道は平坦ではありませんでした。

 1958年、国内外の複雑な情勢によってり、新中国はやむを得ず国際オリンピック組織委員会から撤退しました。しかし、オリンピックを捨てることはなく、いつか復帰を果たすとしたが、その歩みは冷戦問題、1966年から1976年まで続いた文化大革命、さらに台湾の五輪代表問題などなど、国内外の情勢に強く左右され、復帰の道は迂回曲折紆余曲折に満ちていました。そして、ついに1979年10月21年後、20余りの努力がやっと実り、念願のオリンピック委員会の仲間入りを果たしましたすことができました。

 ところがこの時、翌年2月開催の冬季オリンピックの開催まで残り34かカ月後の第十三回レークプラシット冬季オリンピックの開催を控えていましたでした。中国は選手代表団の派遣を決定し、スケート、スキー、スケート、現代バイアスロン三競技の18種目に参加することになっりましたが、その裏には想像できなものがありました。特にスキー選手にとって過酷な現実が待っていましたミッションといえるほど、厳しいそのものでした。

 中国のスキー種目の大会参加の経験といえるものは言えば、1950年代から60年代まで開催された国内のスキー大会と冬季大会に限られていましたに限られていました。また、外国選手との交流活動は、中国を訪問のしたソ連チームとの交流のみでした。さらに、文化大革命の10年間、試合や訓練練習環境などは停滞状態といえるほどありませんでした。スキー場や器具やウェアなど、世界とかなりのギャップがありましたも決して恵まれているとは言えませんでした。

 このような状況下での強化訓練するには、外国に依頼する頼むしかない状態です。外国を選ぶとしも、距離的にレークプラシットまでの距離が適切で、技術的には良好など、いろいろなく、考慮のがあったと考えれ末、技術力のある結果としては隣国の日本を選びましたが候補に挙がりました。早速、中国オリンピック委員会が日本オリンピック委員会に依頼し、さらに、「全日本スキー連盟」に協力を持掛けました。全国47の都道府県のメンバーからなっているので、が、47都道府県それぞれにスキー連盟があるため引き受けるまで待って、に訓練の時間がかかってしまう足りなくなります。、または拒否される恐れもありますした。いずれもおかしくない結果です。しかししかし、即時にすぐに日本長野スキー連盟からは受け入れるという回答がありましたを得ました。長野スキー連盟でした。真っ先に手を挙げたのはが、元全日本スキー連盟の理事でもあり、長野スキー連盟の片桐 匡会長でした。中国がはさっそく選手を派遣入りしました。したのは、1979年12月の終わりのことごろでした。当時、この時に選手を迎え、訓練、を含めた日常生活を全面的全てにの面倒を見たのはのが、現在の長野スキー連盟の河野博明副会長で、片桐匡会長の愛弟子でもありました。した。河野副会長は、当時をこのように振り返ります。電話でお聞きしました。

 「長野スキー連盟が4人の中国選手を引き受け、野沢温泉スキー場で強化訓練することになりました。私はコーチを担当しました。およそ一カ月間、競技の規則などを全部教えました。このほかにもアメリカの食文化なども教えました。

 スキー器具やウエア、それから一カ月間の滞在費は、全部日本のスポーツメーカーがバックアップしました。

 中国が冬季五輪への参加を決定したこと、日本が中国選手の受け入れを決定したことは非常に素晴らしいことだと、今でも思っています」

 4人のこの4人の選手は、長野野沢温泉スキー場で一カ月の強化訓練を終え、その道足でレークプラシットド大会に向かいました。成績は決してよいものとは言えませんでしたが言うまでもなく悪かったです。しかし、中国にとってオリンピックへの復帰の再出場を果たしたこと、世界の舞台を見ることができたのはられたことが何よりの経験となりましたでした。ここから両国のスキー界は強い絆で結ばれることになり、ここから今日のスキー選手らは、世界で中国のスキーはもちろん、スポーツも勇ましく羽ばたくようになりました。その原点にあるは、日本・長野での強化訓練は大きな存在と言わずにはいられませんにあったと言えるでしょう。

 中国では長野スキー連盟の援助協力をを、「雪の中に炭を送る」と感謝の気持ちで称えられ、今でもスキーに関する文章や論文話題などでこの交流が取り上げられています。

 次の時間は、続けられている両国のスキー交流の関係者の話を楽しんでください。

 中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―あの日その時」。今回は「スキー交流で結ばれた中日の絆」についてお届けしました。次回は「今も交流が続く両国のスキー関係者の話」お送りします。お相手は朱丹陽でした。

ラジオ番組
10月29日放送分
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