北京
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MC:劉叡琳
OA:2017年1月7日(土)
中日国交正常化45周年特別企画 「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」 今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」を毎週土曜日にお送りします。 1回目の今日は<井戸掘り>をお届けします。お相手は劉叡琳です。 |
今、中国の対外貿易の1位は日本。日本の対外貿易の1位はアメリカ、2位が中国です。好むと好まざるとにかかわらず、もう中日両国は相手がいなければ生きていけないパートナーであり、切っても切れない仲にあります。中国には「飲水思源(水を飲む時には井戸を掘った人のことを偲ぶ)」という言葉があります。これまでの45年間、中日友好協力の「原点」としての国交正常化という井戸は、いかなる人々の努力によって掘られたのでしょうか。
第二次世界大戦が終わってから、国交正常化が実現する前の長い期間、中国と日本の間には、国交も平和条約も存在せず、敵対関係の状態が続いていました。あの時代、両国が国交正常化にこぎつけることができたのは、両国の政治家や各界の有識者、そして、さまざまな民間人や団体の弛まぬ努力の賜物にほかならないのです。その糸口の一つに、ある食べ物が関係します。それは日本でもおなじみの天津甘栗です。
戦後、両国貿易の断絶とともに、「天津甘栗」の原材料となる「栗」の日本への輸入がストップしてしまいました。日本の栗では、どうやっても美味しい天津甘栗にならないため、崖っぷちに追い詰められた日本の甘栗業者は軒並み倒産の危機に瀕し、中国に対して貿易再開の陳述を懸命に繰り返してきました。しかし、民間レベルに過ぎません。どんなに働きかけても、両国の間を隔てた高い壁は、ピクリとも動きませんでした。ところが突如、国交正常化実現の13年前の1959年、日本への栗の輸出再開が許可されました。決して動かないと思われていた歴史の扉を開いたのは、周恩来総理でした。日本の甘栗業者の嘆願に同情を寄せ、「日本の人々が年末に甘栗を食べる習慣があるから、甘栗がないと、年越しの雰囲気がない」と聞いた周恩来総理は甘栗の輸出再開を働きかけたのです。
「天津甘栗」の輸出再開が糸口となり、1960年、「政府間協定の締結」、「個別的民間契約の実施」、「個別的配慮物資の斡旋」という、「中日貿易三原則」が結ばれました。ここから、民間契約で行う友好取引、いわゆる「友好貿易」が始まりました。
さらに、1962年11月、政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるため、「中日総合貿易に関する覚書」が交わされました。正式な国交はないものの、互いの連絡事務所を設置し、政府保証の融資を利用して行われた半官半民的な貿易形態で、中日間の経済交流が再開しました。この貿易は、当時、覚書に調印した中国側代表・中日友好協会の廖承志(りょう・しょうし)会長と、日本側代表・高碕達之助(たかさき・たつのすけ)通商産業大臣の頭文字から、「LT貿易」とも呼ばれています。政経分離を原則に、両国の間に外交関係はなくても、経済関係の拡大が進み、そして徐々に交流が活性化し、ついに国交正常化の扉が開くことになったのです。 中日国交回復の実を結んだ「天津甘栗」は、いまも北京郊外で栽培されています。万里の長城を遥かに眺める北京市懐柔区の栗畑から収穫される栗の実は、実に8割が日本に輸出されるそうです。こんなのどかな山里から、中日国交回復への第一歩が始まっていました。一見するととても小さな栗ですが、中国と日本との間にあった深い溝を埋めていってくれ、中日の一般国民を結ぶ絆になっているのです。
中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―あの日その時」、今日は1回目<井戸掘り>をお届けしました。お相手は劉叡琳でした。また、次回お楽しみください。