1941年 4月15日、「党と抗日民主政権」を発表し、中国共産党の抗日民主政権確立に関する基本理論と政策を詳しく述べる。
1943年 10月6日、中共中央北方局と太行分局が合併し、北方局代理書記となり、晋キ(北の下に異)魯豫地区の党、政府、軍の業務を受け持つ。
1945年 6月、中国共産党第七次全国代表大会で、中央委員に選ばれる。
8月、日本が無降伏宣言。中共中央は晋キ魯豫中央局と晋キ魯豫軍区の設立を決定、中央局書記と軍区政治委員に任命される。
1947年 5月、中共中央中原局書記となる。
6月30日、劉伯承と共に晋キ魯豫野戦軍の主力を率いて黄河を渡り、魯西南戦役を発動、人民解放軍の全国的な戦略攻撃の幕開けとなった。
8月、劉伯承と共に野戦軍の主力を率いて、大別山地区へと遠征、戦線を長江北岸まで拡大し、中原地区に落ち着く。
1949年 3月、中共第七期二中総会に参加、中共中央華東局第一書記となる。
9月30日、中国人民政治協商会議第一期全体会議で、中央人民政府委員に当選する。
10月19日、中央人民政府委員会第三次会議で、中国人民革命軍事委員会委員に任命される。
11月23日、中共中央西南局第一書記となる。
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