1981年 6月、中共十一期六中総会でトウ小平の主張で起草した「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」が通過される。決議では「文化大革命」を徹底的に否定し、全面的に毛沢東の歴史的地位を評価し、毛沢東思想を堅持、発展させなければならないとした。会議でトウ小平は中央軍事委員会主席に選ばれる。
1982年 9月1日、中国共産党第十二次全国代表大会の開幕のことばとして、中国の特色ある社会主義建設のテーマを提出する。
9月12日と13日、中共十二期一中総会が開かれ、トウ小平を中央政治局常務委員に選び、中央軍事委員会主席とすることを決定。
9月13日、中共中央顧問委員会第一次全体会議で、中央顧問委員会主任に選ばれる。
9月24日、イギリスのサッチャー首相と会見、中国の香港問題における基本的立場を説明、その後の中国・イギリス政府の交渉の基礎を固める。
1983年 6月、第六期全国人民大会第一次会議で、中華人民共和国中央軍事委員会主席に選ばれる。
6月26日、米国ニージャージーのシートンホール大学(Seton Hall University)の楊力宇教授と会見。談話で中国大陸と台湾の平和的統一の考えを明確にした。
1984年 2月、広東省、福建省を視察し、経済特区建設政策は正しいと肯定する。対外開放都市の増加を建議。
6月22日、23日、香港のビジネス界の北京訪問団、香港の著名人・鍾士元氏とそれぞれ会見。話しの中で、「一国二制度」の方法を用いて香港と台湾問題を解決することは、全国人民代表大会を通過した政策であり、変わることはないと指摘した。
10月22日、中共中央顧問委員会第三次全体会議で講話を行う。台湾問題に触れて、平和的な方法で台湾問題の解決を求めることを堅持するが、武力による可能性を放棄したわけではなく、武力行使を排除する承諾はできないと指摘した。これは戦略的思考によるものだ。
12月19日、中国・イギリス両国政府の、香港問題に関する共同宣言調印式に出席。
1985年 3月4日、日本商工会議所訪中団と会見。平和と発展が現代世界の大きな問題であることを指摘する。
6月4日、中央軍事委員会拡大会議で、中国政府が軍人を100万人削減する決定を発表、中共十一期三中総会以後の国際情勢に対する判断と対外政策の二つが大きく変化したことを述べる。
1986年 9月2日、アメリカCBSの番組「60 Minutes」のマイク・ウォーレス記者のテレビインタビューを受け、中ソ、中米関係の問題、台湾問題、改革と現代化建設の問題に対して記者の質問に答えた。
1987年 4月13日、中国・ポルトガル両国政府のマカオ問題共同宣言の調印式典に出席。
4月16日、香港特別行政区基本法起草委員会委員と会見し、また話しの中で、「一国二制度」の方針で統一問題を解決した後、香港、マカオ、台湾に対する政策は50年間変わらず、50年の後も変わらないと述べ、大陸の社会主義制度が変わらないことを保障した。
11月、中共十三期一中総会の決定に基づいて、中央軍事委員会主席を務める。
1988年 9月5日、チェコスロバキアのフサーク大統領と会見。科学技術が第一の生産力だと述べる。
12月21日、インドのラジーブ・ガンジー総理と会見。平和共存五原則に基づいて国際政治の新秩序と国際経済の新秩序を確立することを述べる。発展問題を全人類のものとするべきだとの認識を示す。
1989年 5月16日、ソ連最高会議幹部会主席、ソ連共産党中央書記長のゴルバチョフ氏と会見、中ソ関係の正常化を宣言。
8月、「トウ小平文選(1938?1965)」出版。
11月、中共十三期五中総会で、トウ小平の中共中央軍事委員会主席の辞任の求めに同意する。
1990年 3月、第七回全国人大第三次会議で、トウ小平の中華人民共和国中央軍事委員会主席辞職を承認。
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