中国国家体操チームの練習場に入ると、「楊威を見習おう」と書かれた看板が入り口に掲げられている。国家体育総局体操管理センターの高健主任は「楊威の不撓不屈の精神を学んでもらうため」と語る。
1980年、湖北省生まれ。5歳のとき、地元のスポーツ学校で体操を始めた。彼の体型は、X脚で決して理想的ではなかったが、持ち前の聡明さと練習熱心さで、学校に入って数ヶ月で「先輩」たちを追い越した。16歳で国家代表入りし、2000年のシドニー五輪では主力メンバーとして中国を初の五輪団体金に導いた。そして2003年の世界選手権(米・アナハイム)でも団体優勝に貢献し、「黄金世代」の一人といわれた。
男子6種目では、これといった弱点がなく、国際大会では個人総合にもチャレンジしたが、1998年のアジア大会、2000年のシドニー五輪、2003年の世界選手権ともわずかな差で2位に終わった。惜しいところまでいくものの、優勝を逃すことが多いことから、「万年のNo.2」という有難くない呼び方もされた。本人はこの呼び名について、かつて、こう語った。
「確かにそう呼ばれたことはありますけど、あんまり気にしないんです。毎回、全力を出して、一生懸命やった結果ですから納得できます。失敗も経験の一つですから、それを身につけて、少しずつ成長していければと思います。」
ただもちろん、心の中ではいつも「ナンバー・ワン」を目指している。しかし同世代の選手たちが次々に引退する中、彼の成績は決して理想的なものにならなかった。団体の連覇、そして最大の目標である個人総合の優勝を狙って2004年のアテネ五輪に出たものの、団体では史上最低の5位、個人総合でも大きなミスを犯して7位に。
楊威はこう振り返った。
「中国代表団は選手村で、メダルの獲得数を競技別に看板に書いて発表していました。体操だけ、ずっと空いていました。すごく恥ずかしくて、悔しくて、他の競技の選手と出会ったら挨拶さえできなくなりました。」
大会後、楊威は、一時、引退を考えたという。だが、自分の夢を諦めるわけにはいかない。そう考えて、以前よりもハードな練習を自分に課し、再出発を心に期した。どん底にあった中国代表は、2006年の世界選手権では、団体優勝。さらに個人総合と平行棒の2種目を制覇した。そして翌2007年の世界選手権でも団体・個人総合で優勝し、個人総合では世界選手権史上初の連覇を果たした。「万年のNo.2」はついに世界一となったのだ。
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左は婚約者の楊雲さん |
いまや世界No.1の楊威は、4年前の雪辱を果たすべく、3度目に五輪に臨む。北京五輪について、中国代表の黄玉斌監督は「本来の力を発揮できれば金メダルは間違いない」と太鼓判を押すが、本人は「あとは運しだい」と語る。
彼には力強い味方もいる。未来を約束したフェアンセであり、同じ体操選手の楊雲選手だ。アテネ五輪の敗北後、落ち込んでいる楊威を真摯に励ましてくれたのは他でもない彼女だった。二人は、すでに北京五輪後に式を挙げることが決まっている。
今回の北京五輪は、楊威にとって、アテネの雪辱を果たす大会であり、祖国・中国に恩返しする大会であり、そして、いつもそばにいて元気付けてくれる『生涯の伴侶』への感謝をあらわす場でもあるというわけだ。「万年No.2」だからこそ知っている苦しみ、悔しさ、そして体操の出来る喜び・・・全ての思いを胸に秘め、楊威はまもなく人生最大の大舞台に立つ。(鵬)
楊威(中国語読み「ヤン・ウェー」)、1980年2月、湖北省仙桃市の生まれ。身長160センチ、体重53キロ。
受賞暦:
1998年、アジア大会(タイ・バンコク)で団体・ゆか優勝、個人総合2位
2000年、シドニー五輪で団体優勝、個人総合2位
2002年、アジア大会(韓国・釜山)で団体・個人総合優勝
2003年、世界選手権(米国・アナハイム)で団体優勝、個人総合2位
2004年、アテネ五輪で団体5位、個人総合7位
2006年、世界選手権(デンマーク・オーフス)で団体・個人総合・平行棒とも優勝、アジア大会(カタール・ドーハ)で団体・個人総合・つり輪・平行棒とも優勝
2007年、世界選手権(ドイツ・シュトゥットガルト)で団体・個人総合優勝
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