◆1949年5月、日本の民間では中日貿易促進会(その後日中貿易促進会に改名)が発足した。
◆1950年1月、日本の民間貿易団体と中国側との間でエスクロ・バーターの形で戦後の中日両国間の初めての委託貿易契約が結ばれた。
◆1952年5月、日本国会参議院議員の高良トミ氏、衆議院議員の宮腰喜助氏、帆足計氏が招きに応じて北京を訪れ、中国側と最初の中日民間貿易協定に正式に調印した。
◆1952年12月、中国政府は『中央人民政府関係筋が「中国在住の日本居留民に関するさまざまな問題」について新華社記者の質問に答える』を発表し、中国政府が中国の法律を順守している日本居留民を保護し、帰国を願う日本居留民の帰国に協力する一貫した立場を明らかにした。
◆1953年2月、中国紅十字会代表団が日本側代表団と3回会談を行い、3月5日に『日本居留民の帰国に協力する問題をめぐっての話し合いに関するコミュニケ』を発表した。
◆1953年9月、池田正之輔氏を団長とする日中貿易促進連盟代表団が招きに応じて訪中し、二つ目の中日民間貿易協定に調印した。
◆1954年10月、李徳全女史を団長とし、廖承志氏を副団長とする中国紅十字会代表団が日本を訪問した。
◆1955年3月、中国国際貿易促進委員会副主席の雷任民氏を団長とする中国貿易代表団が招きに応じて日本を訪問した。双方は三つ目の中日民間貿易協定に調印した。
◆1955年4月、中日双方は北京で戦後最初の中日民間の『黄海・東中国海の漁業に関する協定』に調印した。
◆1955年10月、毛沢東主席は久原房之助日本日中、日ソ国交回復国民会議会長および代表団一行と2回会見した。
◆1955年11月、片山哲元日本国総理大臣を団長とする日本憲法擁護国民連合会代表団が中国を訪問した。
◆1955年12月、郭沫若中国科学院院長は中国科学代表団を率いて日本を訪問した。
◆1956年3月、日中文化交流協会が東京で発足した。
◆1956年4月、毛沢東主席は命令を下して拘禁中の日本戦犯の処理に関する中国全国人民代表大会の決定を公布させた。6月27日、周恩来総理は45人が寛大にも有期懲役刑を言い渡されたほか、日本戦犯1017人を全部釈放することにしたことを公表した。
◆1957年7月、日本の日中国交回復国民会議が発足した。
◆1958年7月、中国政府は中日関係について政治三原則を打ち出した。
◆1959年4月、毛沢東主席は浅沼稲次郎氏を団長とする日本社会党訪中団と会見した。
◆1959年9月、周恩来総理と石橋湛山元日本国総理大臣が会談コミュニケに調印し、中日関係の改善と政経不可分の原則をはっきりと打ち出した。
◆1959年10月、松村謙三日本自民党顧問が招きに応じて中国を訪問した。
◆1960年8月、周恩来総理は訪中した鈴木一雄日中貿易促進会常務理事らと会見した際、中日貿易の三原則を提起した。
◆1962年11月、高碕達之助氏は代表団を率いて北京を訪問し、廖承志氏を団長とする中国側の代表団と話し合い、『日中長期総合貿易に関する覚書』に調印した。
◆1964年4月、松村謙三氏らが中国を訪問し、中日双方は互いに代表を派遣し、互いに常駐機構を設置し、常駐記者を交換する会談覚書に調印した。
◆1965年8月、北京市は中日青年友好大交歓を催した。
◆1970年12月、日本国日中国交回復促進議員連盟が東京で発足した。
◆1971年10月、中国は「中日国交回復三原則」を打ち出した。
◆1972年9月25日、田中角栄日本国総理大臣が訪中し、29日、中日両国政府は共同声明を発表し、中日国交正常化の実現を宣言した。
◆1973年1月、中華人民共和国駐在日本国大使館が設置された。
◆1973年2月、日本国駐在中華人民共和国大使館が設置された。
◆1974年1月、中日両国は『中日貿易協定』に調印した。
◆1974年4月、中日両国は『中日航空輸送協定』に調印した。
◆1974年11月、中日両国は『中日海運協定』に調印した。
◆1975年8月、中日両国は『中日漁業協定』に調印した。
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