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私とあなたの思い出のアルバム
   2006-12-26 16:53:40    cri

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 北京放送・中国国際放送局は、2006年で放送開始65周年を迎えました。大勢のリスナーの皆さんのお陰で、今日までこうして放送を続けることができました。新しい年を迎える際、心からの感謝の気持ちを込めて、皆さんに支えられながら、今日まで歩んできた私達の歩みを皆さんとご一緒に振り返ってみようと思います。

陸汝富さん

李健一さん

添田修平さん

曙光さん

 

ベテランアナウンサーの思い出や貴重な番組録音でお送りするこの番組をお聞きいただき、あの虹の架け橋に散りばめられた思い出の真珠を私たちと一緒に拾いに行きませんか。1960年代、新中国の建設のため日本から帰国した陸汝富さん、李健一さん、鄭湘さんを初め、改革開放政策の番組作りにもたらした変化をこの身で体験し、1978年、初めての「明けましておめでとう」(現在の新年番組「紅白歌比べ知恵比べ」)で司会を務めた日本人専門家の添田修平さんの思い出話や、放送にかける思いをお聞きいただけます。

このほか、初代アナウンサーの原清志さん、新中国成立のニュースを放送で伝えた王アナウンサー、中国語講座でおなじみの陳真さんの声を初め、一回目の紅白歌比べ知恵比べの番組録音など、思い出に残る昔の番組をピックアップしてお届けいたします。

 

 一、             日本語放送の開始

 

200612月6日、北京放送・中国国際放送局誕生65周年の祝賀式典が東京都内のホテルで、和やかに開催されました。中国の国際放送の誕生は、1941123革命の地延安にさかのぼります。延安新華放送局がこの日から、中国侵略の日本軍兵士に向けて、週一回、15分間の日本語放送を始め、これが中国国際放送の出した最初の電波となりました。

 

後に、中国国際放送の初代アナウンサーとして、歴史にその名を残すことになったのは、日本人女性の原 清子さん、中国名の書き方では、「清子」の「子」が「子」の中国語発音に近い「志(こころざし)」の「し」になり、原 清志と書きます。

 

1943年、延安新華放送局は、送信機の真空管の故障で、放送を中断せざるをえませんでした。1949620に、当時の北平、今の北京で、北平新華放送局が日本語放送を初め、その日から、現在になるまで、日本語放送は毎日欠かさず、電波を送り続けてきました(当時の放送時間は毎日15分)。その年の101、新中国の成立を宣言した毛沢東主席の声も、日本語放送の電波に乗って、日本に向けて伝えられたのでした。

 

 二、新中国の成立と日本語放送

 

1950年の年頭に、初めてのリスナーからのお便りが日本から送られてきました。その前の年に、日本から帰国して日本語放送に入局した陳真アナウンサーは、後にその著書『柳じょ降る北京より』の中で、このように当時の思い出を綴っています。

 

「その手紙が聴取者のおたより第一号だった。日本からシンガポール、更に東南アジアの二つの地点を経由し、香港を経て北京に届いたこの航空便には、さまざまなスタンプが押され、封筒のふちは擦り切れて、破れかけていた。

 

『ダイヤルを回しているうちに、偶然、北京放送をキャッチしました。中国に新しい政府を作られたことは、なんとなく知っていましたが、放送を聞いていて、広い中国の大地で、今、働く人たちのための国づくりが進んでいることが分かりました。中国の歌や民謡も入っていて、意外に明るい雰囲気の番組だと思いました。これからも聞き続けていくつもりです……』

 

日付から見ると、約二ヶ月たっている。各地を転々としてやっと届いたこの一通の手画を、スタッフの全員が一人一人が手にとって何回となく読み返した。感無量だった。」

 

1950年この年は、日本からのお便りが全部で43通になりました。

 

新中国の成立とその後、速いスピードで進められた国家建設に伴い、中国の日本語放送も日増しに成長し、生き生きとした番組を作るようになりました。文化大革命が起きる直前まで、時には波風もありましたが、北京放送は中国からの生の声を聞くことが出来る放送として、幅広い日本人のリスナーを引き付け、年間のリスナーからのお便りが一万通近くに上りました。また、日本のメディア各社にとっては、北京からの声は中国情報を入手する貴重な情報源でもありました。

 

三、中日国交正常化前の北京放送

 

 ところで、中日国交正常化の前、北京放送は「国内留学」の機構として、中国の日本語人材の養成で役割を果たしました。後に、中国の外相にもなった、現在国務委員の唐家せん氏と、後に中国の日本駐在大使になった徐敦信氏は1962ー1965年、2年余り北京放送で研修を受けました。北京放送での研修生活は、彼らのその後の外交官人生にどんな影響を与えたのでしょうか。傅穎記者が先日、徐敦信さんにお話を伺ってきました。

 

「私と唐家せんさんは1962年から65年初めまで、北京放送で2年余りの研修生活を送りました。職場での共通言語が日本語なので、私たちの勉強にとって、最高に恵まれた良い環境でした。語学の勉強だけでなく、何よりも、日本とどのように付き合えばよいのかという、私にとって、生涯ためになったことを勉強できました。この体験は、私のその後の外交官人生、そして、日中国交正常化実現をめぐる外交の仕事にとっても、たいへん良い役割を果たしました。」

 

徐氏は、当時、北京放送の仕事はたいへん忙しかったと振り返り、とりわけ、放送局がリスナーの手紙を非常に重視する姿勢にたいへん驚いたと言います。

 

「日本語放送にお便り返信組という部署があり、聴取者の手紙を一通一通読んで、質問に答えたり、聴取者の意見を番組にフィードバックしたりしていました。当時の中国と日本は外交関係がないばかりか、互いに対立の関係にさえありました。それなのに、中国のことについて、こんなにも関心を持っている日本国民がいる。これは放送局と聴取者との交流に止まることなく、実は、両国の民衆同士の交流だったように思えました。北京放送での研修によって、私は外交や中日交流の仕事をする上で、一番大事だと気づいたのは、相手の立場や、相手の感情を知ることだと分かりました。私にこのように気づかせたきっかけは、北京放送と日本の聴取者との交流に触れて、感動したからです。」

 

 

2007年の紅白歌比べ収録現場から(左から李健一さん、添田さん、鄭湘さん、曙光さん、李秀華さん) 

 

 四、北京放送の今

 

現在の北京放送は平均年齢34才、部長の傅穎さんも入局10年目、今年32歳の若さです。また、インターネット時代に突入した現在、北京放送は電波での放送だけでなく、ホームページや、ネットラジオを同時に持ち合わせる総合的なメディアに生まれ変わりました。傅穎部長の意気込みと抱負をお聞きください。

 

「リスナーの皆さん、いつも北京放送を聞いていただき、また、ご覧いただき、どうもありがとうございます!北京放送日本語部部長の傅穎です。」

 

今日の思い出のアルバムでも触れましたように、私たちの先輩たちは、中日友好、中日の相互理解を深めるために、地道に努力を重ね、そして、放送を通して、大勢の視聴者の方達と心暖まる交流物語をたくさん作りました。こうしたことは北京放送の良い伝統だと思います。

 

 

(開局65周年のお祝いにリスナーから教わった阿波踊りを)

 

インターネット時代の急速な変化に追いつくには、確かに、若さが大事かもしれません。しかし、私たちは良い伝統をしっかり受け継いで、それを新しいパワーに変えていこうと頑張っています。幸い、北京放送のOBOGたちは、常にバックから私たちを応援してくれていますので、力強く思っています。

 

日中の架け橋を作る役目が、今、私達、若い世代にバトンタッチされました。この自覚を胸に、これからも、視聴者の方々の意見を重視するという北京放送の伝統を大事にし、放送をお聞きの皆様にとって、親しみやすい放送、聞きやすい放送、さらに、情報満載のホームページ、見やすいホームページを作り出すために、頑張って参ります。

 

 

(2006年11月日本語部の遠足)

 

これからも私たちの仕事に対して、皆様の貴重なご意見、ご感想をお寄せください。ぜひとも、新しい「私とあなたの思い出のアルバム」を作り出すため、力を合わせて一緒に頑張りましょう。

どうぞ来年もよろしくお願いいたします。では、日本の皆さん、良いお年をお迎えください!」

 

北京放送開局65周年年末特別番組【わたしとあなたの思い出のアルバム】をお送りしました。この番組へのご意見やご感想など、お手紙もしくはメールでお寄せください。

 

郵便番号100040 北京放送中国国際放送局日本語部

 

メール:nihao2180@cri.com.cn

 

 

 

 

 

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