中国国際放送局紹介 日本語部紹介
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諸岡弘子(長崎県)
   2006-12-05 16:07:10    cri

私と北京放送

 私が、最初に貴局の放送を聞いたのは中学生の時だったので、1960年代の後半だったと思います。ラジオを借りてスイッチを何気なく合わせたら日本語の放送が聞こえました。まったく偶然でした。「こちらは北京放送局です。」という声が聞こえた時は、最初驚きました。なぜなら当時はまだ日中間に国交がなかったからです。中国は文化大革命中でした。当時の中国の人口は、八億人と言われてきました。毛主席語録がよく放送されていました。ニュースも社会主義国との友好に関する話題が放送されていました。スローガンみたいなのが多かったです。「農業は大寨に習べ」という言葉を記憶しています。地方から来た人が、毛主席のお陰で北京の学生になれたと言ってました。国交がなかったので、日本の首相やアメリカの大統領の敬称は、省略して「日本の佐藤」、「アメリカのニクソン」みたいにアナウンサーの方が言われていました。日本軍国主義、アメリカ帝国主義という言葉が、よく使われていました。戦争が終わってから生まれ、戦争を知らない私にはその内容についていけませんでした。近頃、友日運動かがあると当時の放送をその時代が思い出され気分が落ち込みます。

 話がそれてしまいました。日本の松山バレエー団は中国と交流があり、「白毛女」という演目を中国で行って好評でした。「北風吹」という曲は今でもNHKの中国語会話のテーマ等に使われています。また「東方紅」という曲は今でも聴く機会があり、当時は毎回、何回も流れていました。北京放送局に手紙を書いたり、中国語を勉強したりするとは夢にも思っていませんでした。時代が変わり北京放送も変わりました。良い風に変わりました。私が貴局にお便りを出すようになったのは、1970年代になってからだと思います。その間もずっと聞かない様でも聞いてました。漢詩や中国の民話や中華料理の話、中国のお茶やお酒の話、京劇の音楽、少数民族の歌等いろんな話題が放送されました。中国旅行にも四回ほど行きました。中国人の友達も出来ました。当時のアナウンサー陳真さんや鄭湘さん葉静さんとお会いした時に、その声を聞いてわかりました。貴局から「人民中国」雑誌とかいろいろ送っていただき、中国通になったと思っています。こんなに長く放送を聞くことになるとは、思ってもいないことでした。中国を理解するのに貴局はとても重要な役割を果たしていると思います。日中関係は、時々政治的に悪化する時がありますが、少しでもよくなる様に交流が続きます様に私もお役に立てればと思っています。今後共、よろしくお願いいたします。

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