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東西交流の証ー開平の石造りの洋館
   2005-07-28 17:06:09    cri

 開平蜆岡鎮錦江里の洋館

初めて広東省の開平を訪れた人は、中世ヨーロッパの町に迷い込んだような感覚に襲われることだろう。田野に散在する西洋風の建築物?様々な様式の石造りの洋館が、川や橋、ソテツの木、バショウの林と映えあって、クラシカルな雰囲気をかもし出している。

開平は、それ自体は取り上げて目立った所のない地方の小都市だが、そこに残された豊富な華僑文化は、歴史的にも知られている。開平に来たら、赤坎鎮に足を運ばないわけには行かない。赤坎鎮は開平の中心で、1920~30年代にたくさんの華僑が帰郷し、赤坎鎮に中国風と西洋風を折衷させた美しい屋敷を建てた。例えば、イギリス人なら正統なビクトリア朝の屋敷を建てるのだろうが、そこは外国人だから、さまざまな国の様式を取り入れ、華美に華美を重ねた個性的なお屋敷が多く建設された。

当時は、近くを流れる潭江を運航する蒸気船で直接広州、香港、マカオなどに出ることができたので、商人が集まり、大いに繁栄し、銀行、貴金属店、娼館などが立ち並んだ。西洋にあるものは何でもここで見つけられるというほどで、1902年には郵便が、1923年には電気が、24年には路線バスが、29年には電信電話がそれぞれ開始されている。しかし、開平市の変遷に釣れ、赤坎鎮は人々の記憶から忘れ去られ、延々と伸びた通りには空き家が目立つようになってしまった。地元の軽食を売る屋台に出くわしても、昔の栄光を思えば、その凋落振りに心は痛むばかりだ。川沿いのアオギリの木陰で、老人がベンチに腰を下ろして暇つぶしをしている。かつての活気を知る人たちだ。

塘口鎮の洋館

蜆岡鎮錦江里の瑞石楼

自力村の洋館群

開平の洋館は華僑文化の象徴と言ってもよい。20世紀の初頭、開平では多くの人々が夢を描いて太平洋を越えた。館論、福建では、このような人々が海外で稼いだ金で故郷の家族を養うのが常であった。この地方では華僑を出した家は裕福な階層になる。しかし、当時は匪賊が横行したので、裕福な家は特に目をつけられ、多くの華僑が海外で苦労して貯めた金を奪われた。家を焼かれ、家族を殺されることさえしばしばである。そこで、海外華僑は現地の建築家に依頼して、匪賊の攻撃に耐えうる石造りの屋敷を設計してもらい、故郷に屋敷を建てて、家族の安全に努めた。

海外で設計された石造りの館はどれも西洋の風格を色濃く持っていた。イスラム様式のもの、古代ローマの砦風のもの、中世イングランド様式のもの、ドイツの城に似せたもの、フランス式、イタリア式、ほかにも中国との折衷型、純中国式のものもある。石造りの屋敷の内部は典型的な嶺南(五嶺の南、広東、広西一帯を指す)の民家の様式が用いられ、左右対称が原則であった。構造は防衛機能が高い鉄筋コンクリート製で、分厚い壁にあけられた小さな窓には鉄格子が嵌められ、外窓は鉄板、内窓はガラス張りである。門扉はもちろん分厚い鉄製の門扉で、更に木製の格子戸で固めていた。石造りの家は一般に5階から7階建てで、屋根は外壁からかなり高いところにある。しかも、屋上には監視用の展望台、砲台が設けられ、壁には射撃用の窓が開けられていた。まるで難攻不落の要塞である。

凝った装飾の様々な様式の洋館が、潭江平原に星の如く散在し、開平の観光コースを形成する。開平の洋館の多くは、所有者が海外に住んでいるため、荒れ果てた状態で放置されている。外の世界は、日々騒がしく賑やかになっていくが、主のない屋敷はただ黙して、かつての住人の物語をその内側に守り続けているようだ。
日昇楼と翼雲楼

方氏燈楼

広東省開平市塘口鎮の立園の華美な柱

 

文/李中玉  写真/呉万生

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