秦の始皇帝は生前中国を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都?咸陽を真似して作られたのですが、内の城壁、内城と外の城壁、外城もあり、域内にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本当の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。
兵馬俑は地下におよそ2000体ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲内に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。
とにかく、膨大な兵馬俑の軍団は大きな破壊にあうことなく、そのまま、1974年まで保存されてきたのです。1974年3月に地元の農民が井戸を掘った時、偶然にいくつかの陶俑の破片が目に入りましたが、それがなんなのかは分からなかったそうです。それで、すぐに地元の関係部門に報告したそうです。これをきっかけに、その後、考古学者が一年間余りかけて実地調査や試掘をした結果、そこに大きな兵馬俑の坑井があることを確認しました。
今、私たちが兵馬俑博物館に入ると、全部で三箇所が見学できます。一号館、二号館と三号館。この1974年に発見されたのは、1号兵馬俑坑です。この1号兵馬俑坑が発見された後、考古学者は引き続きその周辺で実地調査を行いましたが、1976年4月に1号俑坑に近い東北部分、また2号兵馬俑坑が発見されました。これに引き続き、1976年5月にさらに、1号俑坑の西北方向に3号兵馬俑坑を発見しました。さらに、1976年の夏、埋葬された当時に、まだ完成されていなかった4号坑も発見されました。その内部には何の遺物もなかったのです。なんでも、秦の末期、農民蜂起があったため、工事中の4号兵馬俑坑はやむを得ず中止になったそうです。それから、秦は急速に衰え、秦二世は結局父親の陵墓工事を続ける力もなかったそうです。
1号兵馬俑坑は三分の一ぐらい発掘しましたが、これまで、あわせて1087体の陶製俑を復元しました。さらにその密度から推計しますと、おそらく1号坑には6000体を超える俑があるはずです。2号坑もその密度から推計して、およそ1300体ぐらいの俑があります。また、3号坑は面積が小さいため、すべて発掘しましたが、38体の陶製俑が出土しました。ですから、三つの兵馬俑坑には合わせておよそ8000体ぐらいがあると推測されています。
中国古代の軍隊編成によって、1号坑は右軍、2号坑は左軍、完成されていなかった4号坑は中軍、そして、3号坑は指揮部、というように軍隊が形付けられました。これによって、秦始皇生前に都を守衛した軍隊を再現したのです。
資料によりますと、当時、工事をしたとき、まずは、地下約5メートルに、大きな穴を掘って、穴の中に並行に隔離壁を建てます。その壁の両側にぎっしりと木の柱が並んでいるほか、壁の上のほうにも横木が置かれています。その横木の上には、さらに、筵(むしろ)をかぶせています。穴の底にレンガが敷いてあります。最後に、兵馬俑を入れてから、通路を封鎖して、これで完成です。
今、私たちが見たのは、上にあった土を掘り出したあとの風景です。兵馬俑坑周りの通路を歩くと、まさに、古代の軍隊を眺めているような感じがします。
兵馬俑博物館は1979年10月に設立され、発掘しながら開放という形で一般に公開されています。ですから、訪れる人の目には膨大な兵馬俑軍団が見えるだけでなく、考古発掘の作業風景も垣間見られます。
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