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木村先生を偲ぶ
   2007-03-09 10:04:42    cri
 寄稿:株式会社大富代表取締役社長 張 麗玲

 いつもと変らない日常、街には人々が行き交い、社内では皆が慌しく働いている。

 机の上は、いつものように未開封の手紙と処理されるのを待つ書類の山。ざっと目を通した後、私は日中経済貿易センターから来た手紙を開いた。さながら晴天の霹靂のようであった。私はぼんやりと立ちすくみ、喉に何か詰まったような感じがし、長い間何も話すことが出来なかった。聞こえたのは心臓の鼓動だけ……木村一三先生が、逝ってしまわれた。

 私は涙が流れなかった。あまりに突然すぎて反応できなかったのか、あるいは涙では木村先生に対する懐かしさと敬意が表現し切れなかったのか。一生を日中友好の為に捧げた木村一三先生の死は、日本と中国にとって大きな損失である。訃報を伝えるメディアはほとんどない。多くの人が彼の存在すら知らず、彼がこの世から去ったことも知らないかのように。

 彼は本当に私たちの前から永遠に姿を消してしまったのだろうか。私は木村先生の秘書である兵頭さんと連絡をとった。木村先生に付き添うこと43年、今年79歳の兵頭さんは事務所で私を待っていた。事務所からは木村先生の机とソファー以外、全て運び出されていた。主を失いガランとした事務所、物悲しさが込み上げ、胸が劈かれた。慣れ親しんだソファーに座り、木村先生の机と向かい合いっていると、私は思い出の中へと引き寄せられた……。

 私と木村先生が知り合ったのは1998年、当時は私が大富の社長になったばかりの頃だった。ちょうど中国中央電視台(CCTV)の30周年記念の年であり、大富はCCTVに日中間で影響力を持つ人物のインタビューのコーディネートを委託されていた。当時在日中国大使館の文化参事官であった耿墨学さんが私に木村先生を推薦してくれた。彼が言うには、木村先生は中国人民の長年の友人であり、中国の一世代上の多くの指導者達と親交が深く、周恩来首相とも通算16回接見している。現在でこそ、日中友好に関わる活動は公然となされているが、50年前は、命を投げ出すかもしれない危険と隣り合わせであった。数十年来、木村先生は日中の間で奔走され、命の危険に晒され、何年も帰宅できないことさえあった…彼は自ら戦争後の日中関係の歴史を経験したことから両国の友好の為に突出した貢献をされた。

 この時から木村先生は私の最年長の日本の友人となり、私はいつも彼に教えを請うた。1998年8月21日、大富の主要株主であった大倉商事が突然の破産宣告。設立間もない大富の"中央電視台の日本での放送事業"は危機に直面した。当時、焦る私に、木村先生から一本の電話。私に東京駅付近にある"京セラ東京本部"に行き、稲盛和夫先生に会って、彼と彼が統率する京セラにこの事業を支援してもらうようにお願いするよう、おっしゃられた。

 "日本経済界の聖人"という名誉を博しておられる稲盛和夫先生、経営にはまったくの門外漢である私、いったいどのようにすれば説得できるのか?木村先生は笑ってこう答えた。「安心して彼に会いなさい。稲盛先生は度量が大きく、志の深いリーダーです。彼ならばきっと貴方の話を聞いてくれますよ。」私はびくびくしながら稲盛先生に会いに行った。稲盛先生はご多忙中にも関わらず、詳細に私の話を聞いてくださったばかりか、自ら大富まで視察にいらっしゃった。その後、京セラ株式会社は大富の新たな株主となり、稲盛先生自ら大富の取締役にご就任いただいた。

 紆余曲折を経て、大富は株主倒産の危機を乗り越え、さらに京セラ、フジテレビ、ソニー・放送メディア、電通、アサツーディ・ケイという新しくて強力な株主を迎えることが出来た。これらの5社が協力して"中国中央電視台の日本での放送事業"を支持してくれたことは日中友好の美談の一つとなった。

 大富の9年間の発展・成長には木村先生のご助力が大きかった。彼は常日頃からマスコミの重要性と責任について私を戒め、中国の首脳と接見する度に、その時の様子を教えてくれた。また、日中友好関係は日中両国の将来だけでなく、アジアそして世界への平和に関連していること、そして、我々若い世代は日中友好を促進するという使命を負っているのだということを教えてくれた。彼の持論である「新王道論」は中国の首脳に受け入れられているだけでなく、党内の学習資料としても用いられている…。

 2年前、すでに高齢になった木村先生は歩行に支障が出始めていた。しかし先生の頭はしっかりしており、思考は敏速で、これまで通り日中友好事業に熱心であった。

 歩くことが容易ではなくなったため、先生は恵比寿の老人ホームに入った。昨年の五月私は先生のお見舞いに行った。先生は車椅子に座っていても、やはり温和で慈悲深い様子であった。先生は私に言った。高額の費用を払ってまで老人ホームに入ったのは、ここなら普通に仕事が出来るし、人にも会うことが出来るからだ、と。私と木村先生は昼食を食べながら2時間ほど会談した。その中の一時間半は木村先生の話す日中関係と、"新王道論"に耳を傾けた。部屋を出るとき、先生はまた来るようにとおっしゃり、私も必ず来ますとお伝えした…これが最後の別れとなるなんて。

 私にとって木村先生の影響は非常に大きい。困難に出会った時、いつも先生の教えを思い出す。"もし貴方が中国を好きになりたかったらまず先に中国人を好きになりなさい。" "国と国との関係は人と人との関係である。" "日本人は中国を好きになるべきだ、中国人は日本を好きになるべきだ。こうして初めてお互いを理解することが出来る。"

 日本で木村先生のような人に出会わなければ、私は現在の事業をしていなかったか、或いは早々に諦めていたのではないかと思う。自分の追及する事業に対する純粋な姿勢、そして人徳、全てにおいて先生は私の御手本であった。

 木村先生の事務所を後にしてからも、兵頭さんが話してくれた木村先生のご臨終前の光景が依然私の脳裏を離れない。去年12月23日の晩、兵頭さんが病室を離れようとしたところ、木村先生に呼び止められ、最後の言葉を聞く。木村先生は言った「兵頭君ちょっと待って。一つ言い忘れたことがある。今回、胡錦涛が安倍首相と会談した際に話したことは重要だよ。1つは和平共存、2つ目は世代友好、3つ目は相互利益、4つ目は共同発展、それと、内に対して調和をとるだけではなく、外に対しても調和をとらないと……。これが"新王道論"に基づけば完璧だと思わないかい。」

 4時間後、兵頭さんは病院からの電話を受けた。木村先生の病態が悪化し、すぐに再手術をしなければならないという。この時から、先生の病室は面会謝絶となった。  

 2006年12月27日午前、日中友好に人生の全てを捧げた木村一三先生が永眠された。 享年89歳だった。

 日本人がいつから太陽暦を用いるようになったのか知らない。

 2006年12月30日、土曜日。人々が忙しく年越しの準備をしているその日、先生はご親族によって「密葬」された。木村先生がこの世をさられたという知らせは、ほとんど誰も知らない。

 日中経済貿易センターは2007年2月23日、大阪で追悼式をおこなった。おりしも翌24日は木村一三先生の生誕90周年であった。

 木村先生は逝ってしまわれた。私たちが木村先生を愛して止まないのは、彼が精神的な激励をして下さったからである。私たちが木村先生を追悼するのは、彼のことは決して忘れてはいけないからである。

 悲しみに暮れながらも、私たちは先生にこのように伝えられるだろうか。

「先生、安心して旅立ってください。後に続く人がいます。」

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