青木陽子さん 「アジア視覚障害者教育会」会長
1961年、さいたま市生まれ。予防接種後の高熱で6歳の時に失明。筑波大学付属盲学校、南山大学を経て、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校修士課程とペンシルバニア大学の博士課程を修了。93年に天津外国語学院に入学、95年に天津市視覚障害者日本語訓練学校を設立。中国政府から教育文化に貢献した外国人に贈られる「中国友誼賞」(01年)を、日本では「毎日国際交流賞」(04年)を受賞している。
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青木陽子さん |
「ここから第二の人生が始まるんだ。」1993年8月28日。神戸から「燕京号」に乗船して2泊3日。ようやく天津新港に到着した青木さんはジリジリと照りつける大陸の太陽を全身に感じながらそう思った。アメリカに留学した当時はアカデミックな道を歩もうと考えていた。しかし、アジア諸国から留学している学生たちと交流するうちに考えが変わった。現実離れした象牙の塔の中に身を置くよりも、ダイナミックに変化しつつある中国で、そのプロセスを中から感じてみたいと思った。「21世紀は中国の時代になる。そこで日中の架け橋になるような人材を育成しよう」そう心に誓った。
それから12年。95年に天津市視覚障害者日本語訓練学校を設立。以来200人以上の視覚障害者が青木さんの学校で日本語を学び、その内の8人が日本へ留学を果たした。「中国に暮らすほとんどの視覚障害者は将来の夢を描けるような状況にありません。彼らにとっての選択肢は按摩士になるか、音楽などの分野に活路を見出すかその二つくらいしかなかったんです」
青木さんの日本語授業を受けているうちに、多くの視覚障害者たちが新たな夢を描けるようになった。日本語の通訳として働く、大学で日本語を教える、日系の企業で働く、日本に留学する……。新たな道を自分の力で切り開いていく学生たちが少しずつ増え始めた。
国際交流基金からの助成を得て、10月1日から11日まで4人の視覚障害者たちと初めての訪日研修を行った。「4人の学生たち全員が中国で日本語を教えています。彼らにはただ言葉を教えるだけではなく、実際に体験した日本の姿を授業の中で他の人たちにも伝えてほしいんです」。初めて触れた盲導犬、視覚障害者同士が行うバレーボールや卓球、バリアフリーの交通機関、露天風呂での入浴体験……体全体で感じた日本を彼らはどんな風に伝えるのだろう。
「夢がすべての原動力」と言う青木さん。「今までは中国から日本へ留学生を送っていたけど、これからは中国へ日本やアジア諸国の視覚障害者に学びに来てほしい。アジアの視覚障害者たちが相互交流できお互いの夢を語りあえる、そんな場所を作りたいんです」。彼女の描く夢が新たな夢を生み出す。青木さんを中心に夢の連鎖が広がりつつある。(文責:日中メディア研究会 富樫史生)
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