もうかれこれ5年ほど前になるだろうか。北京の大学での仕事を終え、夏休みに入ったばかりの7月上旬、私と妻は学生のZ君とともに旅に出た。行き先はZ君の故郷のある江南地方である。
江南は梅雨の盛りであった。蒸し暑くよどんだ厚い雲から雨は降ったり止んだりしていた。汽車は無錫のだだっ広い停車場に着き、そこからは乗り合いのミニバスでZ君の故郷江陰に向かった。市内を外れるともうそこは見渡す限り田や畑の田園風景となり、田んぼの中を縦横に流れるクリークが見える。降り続く雨でクリークの水は漲り田や畑に溢れ、農家の納屋を浮かし、道路まで浸し始めている。その水溜りにアヒルが泳ぎ、牛が寝そべり豚が悲鳴を上げている。農民たちは雨空を見上げながら悠々と煙草をくゆらせている。こんな水と緑に囲まれた生活の様が、乾燥著しい北京の風景と違うというだけでなく人心のあり方までも左右してしまうのだろうことを早くも悟った。
江陰では二つの強い印象がある。無錫からバスで1時間余の、この田園に囲まれた小都市に着いたとたん、実にこざっぱりとしている町だと思った。最初はその印象の理由がわからず、後でZ君に聞いて納得したのだったが、家並みが奇麗なばかりかごみがひとつも落ちていないのだ。これはこの数年の間に美しい街づくりを目指してきた行政の努力があったというのだが、加えてごみのポイ捨てなどをしないモラルが、この長江下流の小都市に根付いていることなのである。
江陰ではZ君の学んだ高校を見る機会があった。最近改装されたばかりと言うが、瀟洒な校舎の中には驚くほどの施設や設備が満たされていた。江蘇省は歴史的に教育への意欲盛んな土地柄なのだが、日本の、例えば私立大学でさえこれほどの学園の雰囲気と施設を備えうるだろうか。それが施設ばかりでなく、実際この公立高校からZ君クラスの英才が次々に一流大学に巣立っていくという事実がある。
無錫には富栄養のせいで一面アオコにまみれて異臭を放つ太湖があった。工業排水などの影響で今では魚貝類の棲息すら危ないという。発展のあせりと放漫が招く自然破壊のパターンがここにもあった。「未完の対局」の映像であこがれた太湖のロマンは今はない。
湖西に宜興という町がある。紫泥を用いた「紫砂茶器」を作ることで知られている。以前私はその素朴で端正な姿態を北京の茶屋で見て、ぜひその町を一度訪れてみたいものだと思っていた。だが実際に行ってみると、長い道路沿いに雑多な面持ちの製陶業が延々と続いているだけのとらえどころのない町だった。
そこで私たちは陶磁博物館に入ってみた。人気のない館内の陳列ケースには宋代以降の古紫砂茶器がずらりと並んでいた。それらの古陶磁には、もはや現代人では生み出しようのない技法と魂とが宿っていた。せめてもの記念にと私は、その博物館に付属する研究所で小ぶりの茶器をひとつ求めた。それは値段の割には蓋の具合などもゆるぎなく手のひらにぴったりと納まる佳品であった。それからしばらくの間、私は書作の際の水差しとして愛用していたが、その後尊敬する老書友にその茶器をあげてしまった。今でもちょっと惜しい気がしている。
蘇州では大学の招待所に宿をとり3日滞在した。何しろ名所ひしめく古都ゆえ、めぼしい庭園や寺院などを駆け足で回るだけでもきつい日程である。あまり欲を出さず、歴史を刻む石畳やたゆたう運河などのささやきにもっと耳を貸せばよかったのにと、あとで後悔した。それでも滄浪亭や拙政園の凝った格子窓にもたれて風にそよぐ松柏の音に耳を澄ました。また万車橋沿いの水に写る白壁の風景にしばし瞑想したり、小さな運河沿いの小道をゆっくりと逍遙して寒山寺そばの江村橋にたどり着き、そこここで歌を念じスケッチしたりした。
上海ではちょっとした事件があった。上海駅の地下通路を大小のスーツケースをいくつも転がしながら行き悩んでいると、隊伍を組んで前から近づいてきた人民解放軍の兵士たちがいきなりその荷物に手を掛けた。私は少なからず慌てた。なにしろいかめしい制服姿の屈強の若者たちに取り囲まれたのである。身元不審者としてどこかへ連れて行かれるのだろうかと一瞬本気で思った。
彼らは私たちの荷物を軽々と抱え地下道の一隅から地上へ出た。折から外は篠つく雨脚である。彼らは私たちの行き先を尋ね、列を乱してタクシーを奪い合う人々をなだめて順番を正し、私たちの番が来るとトランクに荷物を入れて運転手に行き先を告げた。全身すっかり濡れそぼった兵士たちは、軽く私たちに敬礼するとまた隊伍を組んで地下道に消えていった。さわやかな旅の終わりだった。
(絵画提供:田端道子)
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