このコーナーでは、不定期的に日本で仕事をしたり、暮らしたりしている中国人をご紹介していきたいと思います。
その第一弾として、14歳に日本へ行って、現在日本テレビで報道記者として活躍している蒋崢(ジャン・スン)さんへのインタビューをお届けいたします。
蒋崢さんは1989年日本で仕事をしていたご両親に呼び寄せられ、中学を卒業した年に故郷上海を離れ、日本へ行ったのです。子供のころ、劇団で演劇などをして、将来テレビや映画の役者や監督になりたかった蒋崢さんは中国で中学を卒業しましたが、日本の高校に入る年齢になっていないため、止むを得ず、もう一度、中学三年生に戻ったわけです。
その一年間は蒋崢さんにとって、一生忘れられないことでしょう。当時、貧しい田舎からきた娘に見られ、日本語も分からないし、お弁当が臭いと言われ、校庭で食べなければならなかったとか、結構いじめられたという蒋崢さんは日本語のできない自分を恥ずかしく思い、高校の時から、一生懸命日本人のまねをして、日本人になろうと努力していました。高校三年間の勉強を経て、日本人と同じように大学受験をして、慶応義塾大学の綜合政策学部に受かりました。大学で蒋崢さんは初めて自分以外の中国人留学生と出会ったのです。中国人の友達が多くなるに連れて、蒋崢さんは蘇るように、元の明るい自分に戻り、中国人に戻る努力をしていたという。
蒋崢さんが就職した1997年は就職氷河期といわれる厳しい時期でした。彼女が受けた日本テレビは何万人の中から30人を選ぶというほど難しかったのです。入社当初、国際部で番組販売を担当していた蒋崢さんはどうしても真実を伝える報道記者になりたくて、パスポートの便のため、国籍を変えるまで、人事に申し込んだ結果、願い叶えられ、報道局に入ったのです。今まで、報道記者として、一番忘れがたいことは2000年朱鎔基前首相との出会いです。
入社八年目で、日本人記者と同じように、日本語で原稿を書いたり、後輩の原稿を直したりして、応援も差別も浴びて、日々頑張っている蒋崢さんは日本滞在15年間の感想として、自分がどう変わっても、血管に流れているのは中国人の血で、根は中国にあることは変えることのできないことです。
|