バックナンバーといってもだいぶ前の話だが、東京神田の東方書店がだしている月刊『東方』の二〇〇四年四月号に藤野文晤さんの書いた「中国語と私」というエッセイが載っていた。

 筆者の藤野さんは、元伊藤忠商事の常務取締役、中国滞在通算十五年という「中国通」で、退職後も亜細亜大学教授、藤野中国研究所代表と中国研究を重ねてこられた方である。エッセイの随所に、藤野さんのこうした長い経験に裏づけされた豊かな知恵が感じられ、たいへん面白く拝見した。

 藤野さんは、このエッセイの一段で次のように書いている。

 「日本語で『小異を捨てて大同につく』というけれど、中国語では『小異を残して大同につく』、(本文筆者注:「求大同 存小異」)という。それは文化の違いなのです。日本語では『小異を残して』ということばは、今までなかったかも知れない、小さい違いは捨てておこうという発想です。ところが中国は小さな違いを残しながら、大きいところでお互いに手を握ろうという文化なのです」

 藤野さんのエッセイのこのくだりを読みながら、ある風景を思い浮かべていた。一九七八年、鄧小平さん訪日の際のひとこまである。わたしは、北京放送の記者として鄧さんの訪日に随行していたが、東京を離れる前の日、鄧さんはプレスセンターで記者会見をおこなった。

 鄧小平さんの訪日にあたって、中日双方は釣魚島のような争議のある問題には触れないことになっていたというのだが、四百余人の内外の記者が出席する記者会見の席上で日本の記者がこの問題を持ちだして質問したのだ。会場は水を打ったように静まり、八百の眼が鄧さんに注がれた。

 鄧さんはゆっくりと次のように答えた。

 「中国では、この島を釣魚島とよんでいる。島の名前の呼び方からして違うのだ。(本文筆者注:日本では尖閣諸島とよばれている)たしかに、この問題では双方のあいだで異なった見方がある。中日国交正常化のさいには、双方はこうした問題に触れないことにしていた。こんどの中日平和友好条約の話しあいでも、双方はこうした問題に触れないことにした。一部の人はこの問題を利用しあらさがしをして、中日関係の発展に水を差そうとしている。したがって、両国政府が問題を話しあうさい、これを避けて通るのは賢明な策だといえよう。こうした問題はしばらく棚あげしておいてもよかろう。十年棚あげしても問題ない。われわれの世代の人間の知恵が足りず話しあいがまとまらなくても、次の世代の人間はわれわれよりも聡明であり、きっとみんなが受け入れられる方法をさがしだして、問題を解決してくれるだろう」

 上述の鄧小平さんの即席のコメントは、冒頭での藤野文晤さんのいう中国の文化、「小異を残して大同につく」を中日関係処理の実践に活用した名言だと思う。

 自己流に解釈してみよう。鄧さんは、まず双方の異に目をつぶったり、切り捨てたりするようなことをせず、「島の名前の呼び方からして違う」と、異の存在をはっきり認めている。ここには、領土の保全、主権という絶対に譲れない問題の存在とそれに寄せる執念が感じられる。続いて、鄧さんは「大同」と「小異」という角度から、中日国交正常化、中日平和友好条約といった「大同」の前では、釣魚島のような問題は「小異」であり、中日国交正常化のさいにも、中日平和友好条約の話しあいのさいにも、双方はこうした問題に触れないようにした。つまり「残す」ことにしたと説明している。「十年棚あげしても問題ない」とも言っている。だが、これは「小異」を切り捨てたり、それに目をつぶったりすることではない。帳消しにしてしまうことでもない。ここには、いつの日にか必ずこの問題を解決するという信念と自信が感じられる。鄧さんは、「われわれの世代の人間の知恵が足りず話しあいがまとまらなくても、次の世代の人間はわれわれよりも聡明であり、きっとみんなが受け入れられる方法をさがしだして、問題を解決してくれるだろう」と語っている。まさに「小異を残して大同につく」である。

 中国と日本は、数千年も昔から海一つ隔てたお隣り同士だった。お隣り同士であるが故に、あれやこれやのいざこざがおこるのも、古今東西、いずこも同じようである。こうしたときに役立つのが「小異を残して大同につく」という知恵ではないだろうか。われわれの先人は、誠意を込め、知恵を絞り、言語を尽くし、目を大きく開いて「大同」と「小異」を見きわめ、和の道を探ってきた。この道から足を踏みはずした不幸な歴史もあったが、これも忘れてはならない貴重な教訓となっている。

 「和すればともに利あり、離れればともに傷つく」(本文筆者注:「和則両利 離則両傷」)、和は中日双方にとって、いちばん大切なことなのである。

 鄧小平さんは、一九八四年、北京で中曽根康弘首相(当時)と会ったさい、「中日の永遠の友好は、われわれのあいだのどんな問題よりも重要である」と断言していた。中日双方にとって、「友好」こそが「大同」のなかの「大同」だというのだろう。二十一世紀、二十二世紀………、これからの世代の人たちは、先人の遺した知恵、つまり遺産にさらに磨きをかけていくことだろう。

 「中国では、この島を釣魚島とよんでいる。島の名前の呼び方からして違うのだ。(本文筆者注:日本では尖閣諸島とよばれている)たしかに、この問題では双方のあいだで異なった見方がある。中日国交正常化のさいには、双方はこうした問題に触れないことにしていた。こんどの中日平和友好条約の話しあいでも、双方はこうした問題に触れないことにした。一部の人はこの問題を利用しあらさがしをして、中日関係の発展に水を差そうとしている。したがって、両国政府が問題を話しあうさい、これを避けて通るのは賢明な策だといえよう。こうした問題はしばらく棚あげしておいてもよかろう。十年棚あげしても問題ない。われわれの世代の人間の知恵が足りず話しあいがまとまらなくても、次の世代の人間はわれわれよりも聡明であり、きっとみんなが受け入れられる方法をさがしだして、問題を解決してくれるだろう」

 上述の鄧小平さんの即席のコメントは、冒頭での藤野文晤さんのいう中国の文化、「小異を残して大同につく」を中日関係処理の実践に活用した名言だと思う。

 自己流に解釈してみよう。鄧さんは、まず双方の異に目をつぶったり、切り捨てたりするようなことをせず、「島の名前の呼び方からして違う」と、異の存在をはっきり認めている。ここには、領土の保全、主権という絶対に譲れない問題の存在とそれに寄せる執念が感じられる。続いて、鄧さんは「大同」と「小異」という角度から、中日国交正常化、中日平和友好条約といった「大同」の前では、釣魚島のような問題は「小異」であり、中日国交正常化のさいにも、中日平和友好条約の話しあいのさいにも、双方はこうした問題に触れないようにした。つまり「残す」ことにしたと説明している。「十年棚あげしても問題ない」とも言っている。だが、これは「小異」を切り捨てたり、それに目をつぶったりすることではない。帳消しにしてしまうことでもない。ここには、いつの日にか必ずこの問題を解決するという信念と自信が感じられる。鄧さんは、「われわれの世代の人間の知恵が足りず話しあいがまとまらなくても、次の世代の人間はわれわれよりも聡明であり、きっとみんなが受け入れられる方法をさがしだして、問題を解決してくれるだろう」と語っている。まさに「小異を残して大同につく」である。

 中国と日本は、数千年も昔から海一つ隔てたお隣り同士だった。お隣り同士であるが故に、あれやこれやのいざこざがおこるのも、古今東西、いずこも同じようである。こうしたときに役立つのが「小異を残して大同につく」という知恵ではないだろうか。われわれの先人は、誠意を込め、知恵を絞り、言語を尽くし、目を大きく開いて「大同」と「小異」を見きわめ、和の道を探ってきた。この道から足を踏みはずした不幸な歴史もあったが、これも忘れてはならない貴重な教訓となっている。

 「和すればともに利あり、離れればともに傷つく」(本文筆者注:「和則両利 離則両傷」)、和は中日双方にとって、いちばん大切なことなのである。

 鄧小平さんは、一九八四年、北京で中曽根康弘首相(当時)と会ったさい、「中日の永遠の友好は、われわれのあいだのどんな問題よりも重要である」と断言していた。中日双方にとって、「友好」こそが「大同」のなかの「大同」だというのだろう。二十一世紀、二十二世紀………、これからの世代の人たちは、先人の遺した知恵、つまり遺産にさらに磨きをかけていくことだろう。