渡江戦役で英雄となった少女ーー馬毛姉さん

2021-10-12 16:39  CRI

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 馬毛姉さんは、1935年9月に安徽省無為県のある貧しい漁師の家に生まれました。彼女は1954年6月に中国共産党に加入し、安徽省合肥市にあるアパレル企業の副経理を務めるようになりますが、それ以前の解放戦争では14才という若さで、長江を渡る戦役「渡江戦役」の突撃隊に前線支援の模範代表として参加しました。

 渡江戦役とは、国共内戦の激化による遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役の三大戦役後の1949年4月21日、鄧小平らが指揮する中国人民解放軍第2野戦軍と第3野戦軍の120万の兵力が長江を渡り、長江防衛線を突破して、1949年4月23日に南京入城を果たした戦役です。

 渡江戦役の直前にあたる1949年2月、長江の堤防の上は人や馬が行き来して、とても賑わっていました。当時、無為県あたりの地方が解放されたばかりで、人々は解放軍が一日も早く長江を渡り、全中国を解放してくれることを願っていました。そのため、数十万の住民が橋を建造したり、物資を運送したりして、前線や解放軍を支援していました。

 馬さんには中国共産党員の兄がいたので、共産党に対する思い入れを強く持っていました。そんな折に、解放軍が長江を渡る船を必要としていると知って、彼女は兄と共にあちこちの家を訪ねて、舟を徴用するための説得を続け、その結果、200隻以上の船が徴集されました。

 4月20日午後6時頃、長江を渡る突撃隊は出発の準備を始めました。先頭をゆく4隻の船の内、一隻が馬さんの家の船でした。解放軍は、あまりにも危険だということで14歳だった彼女の護送を断りましたが、兄が舵を取ろうとしたときに、彼女が急に船に飛び乗って、どうしても一緒に解放軍を対岸まで送りたいのだと兄に訴えました。すでに戦いは一触即発の状態だったため、引き返すことはできませんでした。船が長江の真ん中に差し掛かる頃には戦いは激しさを増し、馬さんは腕に銃弾を受けてケガをしてしまいますが、船を止めることなく前進させました。この戦役で彼女は合計6回長江を渡り、解放軍を3回も長江対岸へと送り届け、水に落下した解放軍も数多く救助しました。渡江戦役後、彼女は「一等功労賞」を授けられました。3107名の功労者の中で最年少でした。1951年、彼女は3名の模範人物とともに、北京で行われた国慶節の祝賀式典に参加したほか、毛沢東主席とも会見しました。

 1957年、馬さんは巣県の速成中学校を卒業後に、新中国の社会主義建設に身を投じ、紡績工場や被服工場労働組合の主席や党支部の書記などを歴任したあと、1976年に安徽省の中心地である合肥市でアパレル企業の副経理となりました。

 定年退職した後、彼女は若者の成長に関心を寄せ、小中学校で革命の伝統をテーマとする教育講座を300回以上行いました。そして2021年6月29日に、中国共産党党内の最高栄誉である「七一勲章」を受勲しました。

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10月29日放送分
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