北京
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柴雲振さんは1926年11月、四川の岳池に生まれました。1949年に中国共産党に加入し、2018年12月、92歳で亡くなりました。彼は中国の教科書に「誰が最も尊敬すべき人だろう」という文章の原型となった人物の一人です。
1951年、柴さんは朝鮮戦争の戦闘で、百人余りの敵を倒し、血まみれの戦いで最後の一人となりながらも戦い抜きました。しかし、その戦いの傷は重く重症となりました。それから2年後に朝鮮戦争が終結し、朝鮮から「自由独立勲章」が授与されましたが、そこの現場に柴さんの姿はありませんでした。
1980年、北京で行われた朝鮮戦争30周年の記念活動で、朝鮮の指導者キム・イルソン国家主席が鄧小平氏に一人の人物について尋ねました。その人とは朝鮮戦争に参加した十五軍の戦闘英雄である柴雲振さんでした。なぜなら、柴雲振さんはかつての戦闘で、一人で100人あまりの敵を倒したことから、志願軍の中で、黄継光や邱少雲とともに、非常に有名な英雄の一人だったためです。このことを聞いた後、鄧小平氏は即時に、できるだけ早く彼のことを探し、生きているなら、必ず見つけてほしい」と指示しました。
そして、国をあげた捜索により、四川の岳池で柴さんを見つけました。実は負傷した後、柴さんは治療を受けるために内蒙古へと赴きました。療養期間中、軍隊との連絡を絶ち、回復以降はふるさとに戻っていました。柴さんが「失踪」とされた30年間、彼はふるさとの地で農作業により生計を立て、自分の功績について、一切触れたことはありませんでした。そのため、人々は「柴雲振」という名前の中国人志願軍が戦争で亡くなったと考え、彼の遺影が軍事記念館や朝鮮の軍事博物館に飾られていました。
1985年10月、キム・イルソン国家主席の招請を受けて、柴さんは朝鮮戦争英雄代表団の団員として、朝鮮を訪問しました。滞在期間中、キム・イルソン主席は2回も柴さんと会見し、さらに「自由独立勲章」を授けました。授与式で、キム・イルソン主席は「柴雲振さんは烈士ではなく、生きた戦闘英雄だ」と強調しました。朝鮮軍事博物館で、柴さんは自分の遺影が黄継光や邱少雲の写真と並んで飾られていたことを自分の目で見ました。朝鮮側の同意を得た後、彼は自分の遺影を下げ、中国に持って帰りました。
柴さんは英雄として扱われましたが、彼自身は自分が英雄だと思うことはありませんでした。このことについて、彼は生前、「もともと農民だった私は、戦争で犠牲になった戦友たちに比べると、ずっと幸運だ」と語っています。彼は自分の戦功など一度も口にしたことはなく、長い年月、ずっと黙々と自分の仕事をやり続けていました。柴さんは2018年12月に93歳で息を引き取りました。亡くなってから3年後の2021年6月29日、中国共産党中央委員会は柴さんに党内の最高栄誉である「七一勲章」を授与しました。
祖父の代わりに勲章を受け取った柴さんの孫は、「党と人民が祖父のことを忘れていないのは、祖父に対する最高の褒美ではないかと思う」と受賞の感想を語りました。