北京
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1890年、湖南省に生まれた李達は、1913年に公費で日本に留学し、東京第一高等師範学校理科に入学しました。1918年、留学生の間で学生救国会を組織して救国団のリーダーを務め、5月 21日、段棋瑞政府に対する請願デモを共同で行いました。これは次の年の「五四運動」のリハーサルとなりました。それと同時に「救国活動」としての理科の探究をやめ、「救国思想」としてのマルクス主義や、河上肇の著作などの研究に懸命に取り組むようになりました。1919年、李達の初となる論文「社会主義とは何か」が上海新聞『民国日報』の副刊「覚悟」上に発表されました。1920年夏、李達は中国へ戻った後、自身の翻訳による「社会問題総覧」、「史的唯物観の解説」、「女性中心説」などの日本の社会主義書籍を次々に出版しました。同じ年に上海の共産主義のグループに入り、1921年 7月、党の第1回大会に出席し、中央宣伝部主任に選ばれました。
共産党の結成初期、李達は陳独秀と密接な交流を持っていました。しかし、1923年の夏、陳独秀との間に対立が生じ、陳独秀との連絡を断っただけでなく、党組織からも離党しました。1926年には『現代社会学』を発表し、史的唯物論と科学社会主義を系統的に論述しました。その後は各地の大学を転々として教鞭をとりました。
1937年、李達は上海や北京などの大学で講義した膨大な資料を基にして、「社会学大綱』を出版しました。この書籍は5部構成、40万字からなるもので、革命根拠地だけでなく国民党統治区にも幅広い影響をもたらしました。毛沢東はこの書を10回も読み、欄外に詳細な書き込みをしたとされています。そして、延安哲学研究会や抗日軍政大学に推薦しました。『社会学大綱』は中国人自身が書いたはじめてのマルクス・レーニン主義の哲学の教科書だと言っても過言ではありません。
1949年5月、北京へ赴き中国人民政治協商会議第一回全体会議に参加して、全国政治協商委員に当選しました。同じ年の12 月、中国共産党中央の批准を経て、改めて中国共産党に加入しました。新中国成立後、彼は中央法政幹部学校副校長、湖南大学学長、武漢大学学長、第一回から第三回までの全国人民代表大会代表、中国科学院哲学社会科学学部委員、中国哲学会会長を歴任しました。そして、1966年 8月24日、76歳でその生涯を閉じました。
李達は長期にわたってマルクス主義研究に従事し、レベルが高く、広く深い学識を持った学者でした。彼は哲学、政治経済学、貨幣学、歴史学、社会学、科学社会主義のすべての研究に努めました。李達は中国のマルクス主義の学者、思想家として、重要な貢献をもたらしました。