北京
PM2.577
23/19
董必武(とう ひつぶ)は、中国の政治家で、中国共産党の創立メンバーの一人です。湖北省黄安県に生まれた彼は、1911年に中国同盟会に加入し、辛亥革命に参加しました。1914年1月、日本へ渡り、法政大学に入学して法律を専攻し、中華革命党に参加しました。1915年6月、帰国して「21カ条要求」に反対し、逮捕、投獄されました。1916年6月に釈放され、翌年2月、日本へ赴き法律科の卒業試験に通過し、河上肇の『貧乏物語』などの社会主義作品に触れていきました。同じ年の夏に帰国して、弁護士事務所を開きました。国民性を改革し、新思想を広めるため、新聞と学校を積極的に創設していきました。1920年、私立武漢中学で学生を募集して授業を始め、マルクス主義を伝えていくなかで、1921年に武漢地区代表として中国共産党第1回党大会(中共一大会議)に参加しました。1924年国共合作のもとで国民党にも加入し、1926年国民党中央執行委員候補となりました。 1927年の国共分裂後、1928年から4年間、ソ連に留学しました。帰国後、江西ソビエト区に入り、中央党学校長をつとめ、長征に参加しました。抗日戦争中は重慶で国共交渉にあたり、国共関係の調整に尽力し、華北人民政府の基礎を作りました。また、1945年4月のサンフランシスコ会議に中国共産党代表として出席しました。
1949年の新中国成立後は、政務院副総理、最高人民法院院長、国家副主席、国家主席代理、中国共産党中央監察委員会主任、党中央政治局常務委員などの要職を歴任しました。
董必武のモットーは、人民に奉仕することです。彼はいつも、「我々の党は大衆の利益のための政党で、もしそういうことができなければ、存在する理由はないだろう」と強調していました。さらに自分自身だけではなく、家族や親戚に対して、「仕事や勉強に励み、人間性を磨き、特権などの享受を絶対に許してはならない」と厳しく要求していました。
新中国成立後、故郷の親戚や友人は彼が北京の高官になったと考え、就職や進学、さらにトラックや鉄鋼購入などの面で便宜を図ろうと話を持ちかけました。しかし、董必武はそれを全部断った上で、親戚らに対して、「私は党や国民の信頼を受けて、国の指導活動に携わっている。私は各政策制定の参加者でありながら、維持者でもある。職権を利用して私利私欲を図るようなことをしてはいけない。革命は官僚になるためではない」と語りました。
1975年、董必武は北京で逝去しました。葉剣英は追悼会で、「董必武同志は生涯良い行いに努めていた。彼は党や国民にとても忠誠を尽くした正真正銘のプロレタリア革命家だ」と高く評価しました。