大禹
中国国際放送局


    4000年前、黄河流域は大洪水に見舞われ、大禹が洪水を治める功績により大衆の信望が厚く、当時の華夏族の首領・舜は帝位を大禹に譲った。大禹治水の物語が代々伝えられてくる。

帝尭の時代に、洪水が氾濫し、禽獣が繁殖し、人に危害を与えた。は部落会議を主催し、洪水を治める問題について討議を行い、治水を命じた。しかし、9年後、が治水の失敗より殺された。堯帝のあとを継いだ舜帝がかわってに治水を命じ、は江河を導き通し、水路を整備し、粗衣粗食で治水のために働き、自分の家の前を通っても、寄ることなく仕事に没頭した。ある日、の妻・山氏が禹の息子・啓を生まれる時、禹は家の外で赤ちゃんの啼き声が聞こえたが、仕事のため家に帰らなかった。

また、その治水の功績を讃えるため、禹が大禹と呼ばれます。大禹の最大の功績は洪水を治めることだ。各部落が分裂した状況の下で、禹は天下が統一に治水する方針を制定した。さらにその助手・伯益に「山海経」の編集を命じ、中国各地の山河、人物、事件の状況を始めて記載した。

禹の治水成功は人々の生活に安定させ、特に、禹が部落の首領に就任し後、社会が新たな発展段階に入った。

氏族公社の後期、氏族、部落の首領達は権利を利用し、剰余生産物を自分の財産とし、氏族の貴族となった。部落間の戦争が発生した後、捕らえられた虜は奴隷と見られ、貴族に奉仕する。これによって、奴隷と奴隷主という二つの階級が形成し始め、氏族公社も崩壊した。

その後、禹の部落の貴族は禹の息子啓が王位に継承することを推挙しました。氏族公社時期の部落連盟の選挙制度は正式に廃除され、王位の世制度が形成した。

中国歴史の始めての奴隷制王朝――夏王朝が形成しした。