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第二話 八一三淞滬会戦

2014-09-10 15:40:42     cri    

 七・七事変(盧溝橋事変)発生後、日本海軍が再び上海地区で挑発・挑戦した。1937年8月9日、大山勇夫海軍中尉など二人が車に乗って上海虹橋空港に乱入して挑発したため、駐屯する軍隊の保安隊に射殺された。日本軍はこの事件を理由として、軍艦を派遣して黄浦江と長江口を動きながら、攻撃するように威嚇した。戦争の主導権を獲得するために、中国の第九集団軍の張治中総司令官は拝命して、第87、88師などの部隊を率いて上海に前進した。そして、8月13日に命令を受け、上海に駐屯していた日本海軍海兵隊の虹口基地に包囲攻撃をしかけた。敵を海まで追い払う計画であった。これにより「八一三」淞滬会戦が始まった。

 日本軍の本部はすぐに上海派遣軍を組織し、松井石根を司令官として、二つの師団を率いて上海へ増援しに行った。9月から10月までの間、合計30万人を増兵した。中国方面も淞滬戦場に向いて絶えず増兵しつつ、前後して70あまりの師団を派遣して上海に赴き、参戦させた。中国軍隊は勇敢に日本軍に対抗し、犠牲を恐れず、戦争は空前の悲惨さだった。その中では、四行倉庫保衛戦が国内外で有名だ。中国の将兵は身体で日本軍の猛烈な砲火を防ぎ止め、命を失っても国を守った。11月始めまで堅持し、日本軍の「3ヶ月で中国を滅亡させる」という妄想を砕いた。その後、日本軍が杭州湾金山衛などの戦場の両翼から上陸し、上海戦場に対して包囲の態勢を形成しようとしていた。守備軍が更なる大きな犠牲を避けるため、11月8日に上海から撤退した。11日、上海が陥落した。

 淞滬会戦は3ヶ月間続いた。中日双方がともに大勢の兵士を投入し、死傷者数は極めて多く、抗日戦争が始まった後の正面戦場における初めての大規模な交戦とされている。この戦いは中日戦争の戦略情勢を変え、日本軍の主力を華北戦場から華東まで南下させ、中国軍の戦略主導権を奪った。さらに中国の鉱工業の内陸地区への移転、民族工業の実力保護に貴重な時間を勝ち取った。

 八一三淞滬会戦の公文書資料

1、1937年8月9日、第九集団軍の張治中総司令官が日本軍の増兵状況について蒋介石らに送った電報(中国第二歴史公文書館提供)

 

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