東交民巷正義路
楊哲三君(左)は、わたしの半世紀にわたる知音である。街頭の信号灯がおぼろにしか見えない楊君は、外出のさい玩具のようなカメラを手にする。そして街角の風景を心で捉えてシャッターを切り、わたしに送ってきてくれる。こうして、病身で外出もままならぬわたしを励ましてくれているのだ。(右)はわたし。
北京東城区東交民巷を北から南に横切る正義路の白く高い壁、長く枝を伸ばす老木(写真参照)、この壁と老木のなかには、清王朝時代の王侯貴族の邸宅やお役所があった。十九世紀から二十世紀にかけての列強の侵略・蹂躙の魔の手が北京に伸びると、この一帯はイギリスの大使館や兵営に変った。向い側の清王室「御八家」の邸宅粛親王府は、日本の公使館や兵営に変った。外国の軍隊がザクザクと軍靴を鳴らして、毎日この道を通って練兵場に向かっていたそうだ。
こうした侵略の魔の手は、さらに中国の奥地へ、奥地へと伸び、掠奪、殺戮、暴行……を繰り返した。このような歴史をその身で体験してきた中国の民衆は、領土・主権を持つ重みをその心に深く刻みこんでいるのだ。
楊君とぼくは、こうした歴史を頭のなかで復習したから、黙黙と正義路を北に抜けた。北京のメインストリート長安街にでる。北京飯店、貴賓楼飯店が秋の陽を浴びて輝いていた。楊君とぼくは、異口同音に「あの白い壁と老木は歴史の証人だな」とふーっと息を吐いて呟いた。
ちなみに、正義路というこの道の名前は、日本が北京を占領していたころ、「明治通り」と呼ばれたこともあったころ、北京市の市役所で働いていた心ある中国人が、仲間と相談してこう名付けたそうだ。この人の名は傅士達と伝えられている。
日本が投降したあとも、新中国が誕生したあとも、そして現在もこの通りは正義路と呼ばれている。北京人は、この命名に誇りと親しみを感じている。
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