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KEJIME―昭和から平成へ

 日本語「けじめ」(KEJIME)を表わす漢字はなく平仮名表記、東京駐在の中国人記者はこのことばに出会うと、どうやって中国語に訳して本国にニュースを送るか頭を痛めます。

 例えば「自民党リクルート事件けじめ(KEJIME)小委員会」ということばを、新聞『人民日報』のベテラン記者于青さんは「……自民党成立専門委員会、研究牽連利案党内議員如何承担政治和道義責任的最終解決方式」と訳してニュースを送っていました。意味を正しく捉え、読者にわかりやすく翻訳した親切な名訳です。翻訳というより編訳でしょう。

 「弄清是非」と訳している人もいました。「划清界线」と訳している人もいました。いずれも内容の前後の流れに幾らかことばを足し、そこに「弄清是非」や「划清界线」を折り込んだといった感じでした。日本の『日中辞典』(岩波書店)をひいても、「けじめ(KEJIME)ずばり○○○○」という訳語はなく、「公私应该分明」「你这个人该干和不该干的都不能分辨吗?」という例文を掲げて、「けじめ(KEJIME)」の意味を説明しているだけでした。

 そんなわけで、このエッセイでは日本語の発音のローマ字表記「KEJIME」をそのまま使うことにしました。上述の説明と前後の流れから意味を想像・推測して読んでみてください。

 説明が長くなりました。早速、本題に入りましょう。

 日本の自由国民社が毎年だしている『現代用語の基礎知識』が選んだ一九八九年の流行語の銀賞は「KEJIME」でした。たしかに昭和から平成へと歴史が移ったこの年は、リクルート事件、政治倫理問題、政治家の女性問題……などなど、「KEJIME」で明け、「KEJIME」で暮れた年でした。

 振り返ってみますと、リクルート事件にしろ、政治倫理問題にしろ、新聞紙上を、テレビのブラウン管をあれほど賑わしたどの問題も、あまりすっきりしないまま、なにか風化していっているような感じがしてなりません。昭和から平成へと歴史が移った年、あれやこれやの「KEJIME」の問題がありましたが、この年、新聞を見ながら、テレビを見ながら、わたしがぜひとも「KEJIME」をつけてもらいたかった問題、それは昭和の歴史でいちばん大きな教訓を残したあの戦争―中国の、アジア諸国の民衆にはかり知れない災いをもたらし、また日本の民衆にも大きな犠牲を強いた、あの侵略戦争にたいする「KEJIME」でした。これが昭和から平成へという歴史の移り変わりの時期、言い換えれば、この問題の「KEJIME」をつけるのにはとてもよい機会であるときに、あまりはっきりされないままになってしまったということは、とても残念なことだと思います。

 一九八九年―昭和六十四年一月七日の朝、わたしは東京の目黒のマンションの一室で、昭和天皇逝去のニュースを知りました。当時、北京放送の東京駐在記者をしていたわたしはすぐに北京に速報ニュースを送りました。中央人民放送局の全国ネットで速報されたそうです。この日から、日本のテレビ・新聞・雑誌は、特別番組とか、特集号とか、まるで堰を切った流れのように昭和の歴史……を、来る日も来る日も伝えていました。その量はたいへんなものでした。でも、こうしたなかで、とても解かせないことがおこっていました。過ぎ去っていく昭和の歴史のなかで、日本の民衆にとっても、中国の、アジアの民衆にとっても、いちばんかかわりの深い部分―日本の中国侵略、アジア侵略ということが、あまり取り上げられていないということです。天皇逝去から大喪の礼までの一ヶ月あまり、わたしの疑問は不安へと変っていきました。

 昭和から平成へ―ある人は「古い傷の痛みは忘れ去って、豊かな未来へ羽ばたくのだ」と言います。ある人は「次の世代には、もうあの重荷を背負わせたくないのだ」と言います。善意なのだというかも知れません。しかし、錯った過去への忘却・断絶は、錯りを繰り返させることに繋がる―これは多くの歴史の事実が教えているのです。昭和から平成へ―この歴史のひとときに、首相の座にあった竹下登さんは平成という年号について「国の内外にも、天地にも平和が達成されるという意味が込められている」と語っています。

 しかし、平成が真に平成であるためには、昭和の戦争の歴史の教訓をしっかりと胸に刻んでいくこと、この問題にはっきりとした「KEJIME」をつける努力をしていくことが必要ではないでしょうか。中国には「反面教員」ということばがあります。逆の面から民衆を教育してくれる人物或いは事件のことです。あの戦争の歴史は、昭和の日本の歴史のなかで、いちばん教訓に富んだ「反面教員」だと思います。中国には、こんなことばもあります。「前事不忘、後事之師」(前のことを忘れることなく、後の戒めとする)ということばです。中国の民衆が過去のあの戦争について触れるのは、まったくこのことばの通りで、過去の歴史から教訓を汲み取り、ふたたびああした戦争を繰り返させないためで、こうして守られた平和・友好が中日両国の民衆をもふくめたアジアの、世界の人たちの幸福にとって、とても大切だからです。過去に目を閉じていては、過去に「KEJIME」をつけないでいては、こうした教訓は汲みとれないのではないでしょうか。

 大喪の礼から半年、一九八九年の八月十五日、日本では「終戦記念日」と呼んでいますが、この前後にも、あの戦争の教訓、とりわけ日本の加害者としての歴史の教訓については、あまり取りあげられませんでした。昭和から平成へ―元号が変ったというので、このことがさらに遠くに押しやられてしまったような感じさえしました。わたしの不安は、さらにつのるでした。でも、こうしたわたしを慰めてくれるものもありました。八月十五日前後の日本の新聞の投書欄に載った若い世代からの投書です。

 東京の高校生、十七歳の伊東早苗さんは「テレビで西ドイツがナチスの犯罪にたいし時効を廃止して徹底的にその責任を追及しているのを知った。『大切なのは過去に正直になることだ』という言葉は、日本人も見習うべきだ」と書いていました。

 東京の大学院生、二十四歳の三浦敏樹さんは「『すでに四十四年も経ている』とか、『幾人かの戦犯が裁かれている』とか……、これで戦争にたいする『KEJIME』がついたといえるのだろうか。……戦犯を合祀した神社に閣僚が公式参拝したり、教科書から日本軍の残虐行為を抹消したりする問題が問われなければなるまい」と述べています。

 三重県の会社員、今年二十六歳の島村徹さんは「日本の侵略によって死傷した中国人民は数千万人と伝えられる……。これらの事実を覆い隠そうとする姿勢は間違っている。日本による『加害』の事実も知らされるべきだ」と訴えていました。

 神奈川県の高校生、十六歳の宮岡江都子さんは「当時日本人がいかに中国をはじめとするアジアの人々に多大な害を与えたかを認識することが大切なのだ。……折に触れ私たちの『加害者』としての立場を追及していってほしい。でないと、若い世代がアジアの人々と真の友情を結べなくなるのではないか」と問いかけています。

 引用が長くなりました。でも、日本の加害者としての歴史を正視して、そこから教訓を汲みとろうというこうした若い世代が、日本の津々浦々でその輪を広げていくことが、平和な二十一世紀のアジアに繋がるのではないかと思うと、どの投書にも、その一言一句に、わたしは万鈞の重みを感じるのです。二十一世紀人ともいえるこうした人たちが、二十世紀人であるわたしたちに何を望んでいるのか、どうしたらこうした二十一世紀人の声に応えて平和な二十一世紀を彼等に遺せるのか、若い世代からの投書を読みながら、わたしは繰り返し、繰り返しこうしたことを考えていました。そして、昭和天皇逝去から大喪の礼、平成元年の年の瀬……、昭和から平成に移る日々に、あまりはっきりされなかった侵略戦争への「KEJIME」、この問題が二十世紀から二十一世紀へと移る日々に、はっきりされていくことを心から期待するのでした。二十一世紀を中日の、アジアの、世界の平和と友好の世紀にするために……。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(四十三) 国際人とは……
東眺西望(四十二) 題字余韻
東眺西望(四十一) 北京の味 日本人の舌
東眺西望(四十) 大同と小異
東眺西望(三十九) ある「本」の話
東眺西望(三十八)ー大江健三郎と拼命三郎
東眺西望(三十七)ー小澤征爾の魅力
東眺西望(三十六)「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(三十五)周総理・日本語放送・「文化大革命」
東眺西望(三十四) 養之如春--井上靖
東眺西望(三十三) 友は多ければ多いほどいい――廖承志
東眺西望(三十二) 花を愛する硬骨漢--老舎
東眺西望(三十一) 歴史の語り継ぎ――趙安博
東眺西望(三十)  膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九) 皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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