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国際人とは……

 四月は日本の新学年———ここ数年のことだが、日本では国際学部、国際関係学部、国際情報学部、国際社会学部、国際コミュニケーション学部、国際文化情報学部、国際協力学部……などなど、国際という二字を頭につけた学部を設ける大学が増え続けていると聞く。日本の新聞をみていると、今年も例外ではないようだ。どこの大学も、こうした国際という二字をつけた学部増設の理由を「二十一世紀に挑戦する国際人の養成」と国際人を育てることをその謳い文句としている。

 国際人とは……。中国語には「国際人」ということばはない。そのうちに日本からの「外来語」として入ってくるかも知れないが……。パリ、ロンドンなどで特派員生活を送った朝日新聞の柴田俊治氏は、その著『日本人と国際人』で、さる高名なる教授の次のようなことばを引用している。「国際人、国際人というが、考えてみてもそんな言葉は思い当たらない。

 Internationally minded person と表現してみても、英語としては意味をなさない。フランス語で、Homme internationalと直訳してみても、こんな言葉はない。国際人、国際人と言っているのは、日本だけじゃないでしょうか」

 国際人という日本語はますます多くの日本人のあいだで使われているのは、紛れもない事実である。わたしもわたしなりに「国際人とは……」と自分に問いかけてみた。

 もう三十年以上も前の話になる。わたしは朝鮮との国境に近い中国東北地方吉林省の通化からバスで半日、さらに馬車に乗り換えて半日という山奥の一寒村で暮らしていた。そのとき、村の張おばあさんからこんな話を聞いた。

 「日本が投降したあの年の夏だったかなあ、日本人が北の方からこのあたりに逃げてきたんだ。乳のみ子もいた。そのなかには、母親のいない子もいた。乳が出ない母親もいた。日本は中国でいいことしなかったけど、やはり世の母親の心はみんな同じさ。乳の出る村の女たちが自分の乳を通りすがりの日本の乳のみ子に飲ませてあげたのを覚えているよ……」「国際人とは……」と自問するわたしの頭にふと浮かんだのは、張おばあさんのこの話だった。飢えて泣く異国の乳のみ子にためらいもなく自分の乳を飲ませた中国の一寒村の女たちの姿だった。もう半世紀も前のことだ。そのころには国際人などということばはなかっただろう。だが、この人たちこそ、いまでいう国際人ではないだろうか、わたしはそう思ったのだ。国境を超え、人種を超え、さらには恨み、憎しみさえ超えて人を愛せる人、こうした心こそ、国際人のいちばん大切な条件ではないだろうか、わたしはそう思ったのだ。

 もう一つの風景がわたしの頭を掠める。ちょっと国際人とは結びつかないものかも知れないが……。上述の中国東北地方の一寒村の女性たちからの連想である。

 零下四十度という寒い日もある北のさいはての地、この中国東北地方の農村での暮らしは、都会育ちのわたしにとってはとても厳しいものだった。だが、村の人たちの温かい心に包まれ、豊かな心で日々を送ることができた。体力のないわたしを気づかって、村でもいちばん楽な仕事である山の上の桑畑の番人をやらせてくれた生産隊長(当時はそう呼んでいた。村長さんのことだ)の王さん、わらびが美味しいと言ったわたしのために不自由な足を運んで山からわらびを採ってきてくれた張おばあさん、寒がりのわたしに毎晩オンドルのいちばん暖かい所を空けて待っていてくれた宋おじいさん……。

 人間が生きていくには空気が欠かせない。だが、空気は人間にまったくその存在を感じさせない。その存在をひけらかすようなことは決してない。王隊長、張おばあさん、宋おじさん……、村の人たちのわたしに寄せる心づかいは、こうした空気のような愛だった。押しつけがましいもの、恩に着せるようなもの、礼を求めるようなもの……、そんなものは、まったく感じられなかった。かつて、この村の女性たちが行きずりの日本の乳のみ子に自分の乳を飲ませたのも、こうした空気のような愛の心が底流にあったのだろう。あのような素晴らしい行為を語る張おばあさんからはそれをひけらかす様子は微塵も感じられなかった。大国と小国、強国と弱国、豊かな国と貧しい国のある現在の世界、そこで活躍しようと思う国際人は、常にこうした空気のような愛の心を胸に刻むべきであろう。

 もちろん、国と国との関係となると、それなりに問題もかなり複雑になる。だが、長い眼でみれば、それにたずさわる人が空気のような愛を心がけることは大切で、これが国と国との関係でも花を咲かせ、実を結んでいく上で決定的な役割をはたすものと思う。

 去年の八月に亡くなった中日友好協会会長の孫平化氏は晩年、次のように話していた。「私がいつも思うのは、中日友好でも日中友好でも一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。お互いに心と心で付き合う友情が大事だと考えている。その意味では、最近の中日関係には"情"がない」―孫平化氏のいう"情"とわたしのいう"空気のような愛"には一脈相通じるものがあるように思う。大国を楯に、強国を楯に、豊かな国を楯に押しつけがましい、恩に着せるような礼を求めるような言行にでることは慎まなければならない。

 そのためには、真に「おのれを知り、相手を知る」ことが必要だろう。おのれにたいしては謙虚であるべきだ。常に自省を怠ってはならない。そして相手にたいしては、その歩んできた道、歩んでいる道、歩もうとしている道を暖かい心でつぶさに理解し、相手の痛みを自分の痛みとして感じ、相手の喜びを自分の喜びとして感じられる心が持てるようにならなければならない。小さな国、弱い国、貧しい国にも学ぶべきものが多々あることを知るべきだと思う。貧しい国も決してその国の人たちが「なまけ者」だから、「頭が悪い」から貧しいのではないことを知るべきだと思う。なぜ貧しいのか、その真の所在を知り、貧しさから抜け出そうとするその国の人たちの努力に惜しみない声援を送るべきだ。それが空気のようなものでなければならないのはもちろんだし、そこから自分も多くのものを学ぶことができるのを知り、多くのものを得ることができるのを知るべきだと思う。こうした理想的な国と国との関係を成文化したものとして頭に浮かぶのは、周恩来総理が1953年12月、中印会談ではじめて提出した『平和共存の五原則』である。「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに和平共存」のことだ。そのご、中国は諸外国との関係処理の面でずっとこの原則を貫いてきている。中日関係についてみても、一九七二年の『中日共同声明』、一九七八年の『中日平和友好条約』では、ともにこの五原則を「恒久的な中日平和友好条約関係の確立、発展」の準則として確認しあっている。そのごの歴史は、この原則を踏まえて調印した『中日共同声明』と『中日平和友好条約』に沿って事をはこべば中日関係には美しく花が咲き、この原則から足を踏みはずすと中日関係には黒雲が漂うことを立証している。『平和共存の五原則』は二十世紀の国際人の知恵の結晶であり、二十一世紀の国際人の貴重な教科書といえよう。

 日本の新聞、雑誌をみていると、国際人の条件がまるで外国語ができるかどうか、とりわけ英語ができるかどうかということのような感じを受けることがある。

 たしかに、外国語ができるということは国際人の有力な手段であることには疑問をはさむ余地はない。だが、外国語は万能ではないし、使い間違えるとこれが国際人にとって仇となることさえあることを忘れてはならない。

 わたしの友人J君は一九六〇年代の北京大学日本語学科の卒業生である。J君は中国東北地方の農村の出身で、村では初めての大学生として父母の自慢の種だった。ところが、大学を卒業したJ君が帰省して「日本語の通訳になった」と話すと父母をもふくめて村の人たちがみなとてもがっかりしたという。J君の故郷はかつて日本軍に占領されたことがあり、そのとき日本軍の先頭にたって村に入ってきたのが通訳だったそうだ。その通訳は日本軍を楯にして村で悪事のかぎりを尽くした。そこで村の人たちはこの通訳を「狗腿子(コウトウイズ)」(直訳すれば「犬の足」、悪人のお先棒をかつぐ手先をののしることば)とか、通訳という日本語の音をもじって「龇(ツ)牙(や)狗」と呼んでののしり、憎んだという。ちなみに「狗」は犬のことだが、「狗地主」(悪徳地主)、「狗官」(悪役人)、「走狗」(悪人の手先)……と悪人をののしる言葉としてよく使われている。もちろん、J君は「狗腿子」でも「龇牙狗」でもない。優秀な翻訳家、日本問題研究者の一人で中日友好をめざす国際人として活躍している。

 美声だけに甘える歌手は大成しないという。外国語だけに甘える国際人も大成しないだろう。国際人たることを心がける一人として、私は外国語を磨く以上に、国際人の心を磨いていきたいと思っている。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(四十三) 国際人とは……
東眺西望(四十二) 題字余韻
東眺西望(四十一) 北京の味 日本人の舌
東眺西望(四十) 大同と小異
東眺西望(三十九) ある「本」の話
東眺西望(三十八)ー大江健三郎と拼命三郎
東眺西望(三十七)ー小澤征爾の魅力
東眺西望(三十六)「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(三十五)周総理・日本語放送・「文化大革命」
東眺西望(三十四) 養之如春--井上靖
東眺西望(三十三) 友は多ければ多いほどいい――廖承志
東眺西望(三十二) 花を愛する硬骨漢--老舎
東眺西望(三十一) 歴史の語り継ぎ――趙安博
東眺西望(三十)  膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九) 皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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