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前書き
 1937年7月7日の盧溝橋事変の後、日本軍は3カ月以内中国を滅亡しようと妄想した。国民党と共産党は抗日民族統一戦線を作り上げて共同で敵に抵抗した。

 「百団大戦」(日本軍占領下の華北一帯で1940年8月20日から12月5日まで中国共産党の百個団(連隊)以上からなる八路軍の部隊が日本軍に攻撃をかけた一大攻勢)の後、日本軍は中国共産党の支配下にある根拠地の周辺に、大規模な掃討作戦を頻繁に行い、「三光」(焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす)という残酷な政策を実行した。中国共産党が指導した抗日武装力と解放区は巨大な犠牲を蒙った。1941年末、日本が「真珠湾攻撃」を起こし、英米に宣戦布告をした。中国の抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な構成部分となり、中国の戦場が日本ファシズムに抵抗する東方の主戦場となった。

 1945年8月、日本が敗戦し、降伏した。この時、中国の正面の戦場と敵の後方の戦場では、国民党と共産党の抗日軍隊は、東南アジアと太平洋戦場にいる日本軍の総数よりも多い日本軍の57個師団に抵抗していた。事実が証明したように、中国の戦場は第2次世界大戦で日本ファシズムに抵抗する主戦場であり、中国の抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な構成部分だ。中国人民は世界反ファシズム事業のために不滅の貢献をした。

 中国の抗日戦争及び世界反ファシズム戦争勝利記念日が到来する際、当時、血を浴びて戦闘し、人々を感動の涙にむせばせる中国人民の歴史的な壮挙を再現するため、国家公文書館は中央公文書館や中国第二歴史公文書館で保存されている中国の抗日戦争で代表的な戦役、戦闘の一部の公文書を選んで公開するものだ。

抗日戦争に立ち上がった人々

第三十話 湘西会戦

 1945年4月、中国侵略日本軍は約8万人の兵力を集結し、第20軍の板西一良司令官の指揮の下で、分進合撃(分散した部隊が集中するように機動・攻撃する方式)の戦術をとり…

第二十九話 衡陽防衛戦

 第二十九回の説明によると、1944年の初め、日本は大陸交通線を貫通させ南洋に孤立する日本軍を救い出すために、中国侵略日本軍の主力をかき集め、「一号作戦」を発動させ......

第二十八話 車橋戦役

  第二十八回の説明によると、車橋鎮は江蘇省淮安県の東南に位置し、蘇中(江蘇省の中部)と蘇北(江蘇省の北部)を結ぶ中枢で、日本軍第65と第64師団の結合部であり......

第二十七話 常徳の戦い

 1943年11月の初め、中国侵略日本軍は中国の軍隊が雲南省への反撃を牽制するため、中国第六戦区及び第九戦区結合部となる常徳地区へ攻撃を開始した…

第二十六話 中国遠征軍のミャンマー北部、雲南西部での戦闘記録のリスト

 1943年10月14日、中国駐インド軍新編第38師が日本軍第18師団の防御線を撃破し、新平洋を攻略し、ミャンマー北部に進軍した。1944年初め、堅布の谷間を占領し、日本軍の残軍が孟拱の河谷を撤退するように迫った…

第二十五話 太行、太岳の夏季反「掃討」作戦

 1942年5月、日本軍は3万人余りの兵力で、「鉄壁合囲、捕捉奇襲」などの戦法をとり、太行、太岳の抗日本拠地に夏季の「掃討」を行った。5月19日、敵は2万5000余人の兵力で…

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