~東鱗西瓜~
話・はなし・噺・HANASHI-絵 張紅 文 李順然
第七十一回
ざくろの花とちまきの餡
わたしの文字が最初に本になった『わたしの誌』北京風物(東京・東方書店 1987年)にカットを添えてくれた張紅さん、当時は美術学校をでたばかりのお嬢さんだった。あれから三十年近く、今の張紅さんは中国指折りの出版社三聯書店のベテランアートディレクターである。三十年近く前に、ちゃきちゃきの北京っ子の張紅さんが描いてくれたカットには、自動車の洪水もなく、高層ビルの林立もなかったあのころの北京庶民の心が感じられる。一人で楽しんでいるのはもったいないので、毎回のこのコーナーに再登場してもらい、わたしの退屈な雑文に色を添えていただくことにした。
「五月の榴花眼を照らして明らかなり」(唐・韓愈)。もう半世紀も前の昔話です。多分、六月(旧暦の五月)だったと記録しています。北京に来たばかりのぼくは、友人の孫穎達君に誘われて孫君の姉上の家に遊びに行きました。後海の近くの静かな胡同(横丁)のなかの中国風の家だったように覚えています。孫君も僕も二十代前半のわかものでした。
家の門を入って庭に出ると、真っ赤な小さな花が二人の足を止めました。孫さんの姉上が「ざくろの花ですよ」と教えてくれたのですが、東京生まれ、東京育ちの在日中国人二世のぼくたち二人は、ざくろは果物だと思っていたのでとても驚きました。姉上は、北京っ子は庭にざくろを植え、その横に大きな瓶を置いて金魚を放つ、ざくろは子宝に恵まれる、金魚はその北京語の発音が「金余」と同じなので財宝に恵まれると笑いながら教えてくれました。
いろいろ見せていただき、いろいろお話を聞き、いろいろご馳走になったその帰り道で、孫君と僕は大論争も始めました。大論争は、孫君の『あのざくろの花、すごく綺麗だったな。漢字で書けば「赤」かな、「紅」かな、「朱」かな。おれは「朱」だと思う』という一言で始まりました。ぼくが『どっちかと言うと「赤」だな』と言うと、孫君は『「赤」、そんな安っぽい色じゃない』と反駁。何回か妥協を試みましたが、孫君は「朱一色」を堅持、こうして大論争は部屋にまで持ち込まれました。当時、孫君と僕は北京放送局の独身寮の二人部屋に一緒に住んでいたのです。時たま爆発する孫君のこうした一徹ぶり、まったく悪げもなく、私心もなく憎めないもので、ぼくは好意さえ感じていました。
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