長野県長野市。1987年の夜、ラジオのダイヤルを回したら北京放送を見つけた。それ以降北京放送を聞くようになった。1985年春ごろ、初中国訪問。1997年4月から長野県北京放送を聞く会事務局長担当。同時に北京放送を聞く会全国本部理事担当。現在、「長野県北京放送を聞く会ニュース」の編集発行担当。
北京放送との出会い(その一)
記憶は確かではないですが、1987年前後のある日の夜、ラジオのダイヤルを回していたら「こちらは北京放送局」という女性アナの声が入ってきました。しばらく聞きますと、「中国語講座」が雑音交じりで入ってきました。中身はよく分かりませんでしたし、担当アナは知るよしもなかったが、後で考えると、多分曙光さんだったと思います。当時の教材は「やさしい中国語」だったと思いますが、これを契機に北京放送を聞くことになった出会いで、一番先に名前を覚えたのが曙光でした。
1990年代の初めに、「北京放送を聞く会長野県支部」に入会し、当時としては高価なラジオ受信機を購入し、以降北京放送に耳を傾けることとなるが、ここからが本当の私と北京放送との出会いでした。
私が訪中旅行ツァーの一員として始めて中国の土を踏んだのは、今から21年前の1985年春でした。また中国語の学習を長野市内の成人学校で始めたのもその頃でした。当時、日中友好訪中団の一員として、上海、蘇州、石家庄、北京を回ったのですが、上海空港の上空に達した時、ついに夢に見た中国に来たんだなという感動を覚えました。それから、各地で中国対外友好協会の方に名所旧跡などを案内していただき、中国の偉大な歴史に目を見張り圧倒されました。当時は道路やホテルの設備、トイレなどを含めた公共施設が悪かったことが印象に残っています。あれから20年あまり過ぎてしまいました。今の近代化した中国の姿から見ると、隔世の感がありました。
北京放送を聞く会の組織と私
私が長野県北京放送を聞く会に入会したのは1990年頃だったと思います。そして、1997年4月、北京放送を聞く会長野県支部事務局長の中沢文男さんから、事務局長を引き継ぎ、会務のお手伝いをさせていただくと同時に、その年の五月から聞く会全国本部が解散した2000年3月末まで、全国本部の理事を委嘱されました。当時すでに全国の会員が減少の一途をたどっており、本部の宮原会長や他の役員は会の運営に苦慮していました。長野県のように日中友好協会との連携や相互協力体制を持っている地域が少なく、会員の増加施策は効果がありませんでした。長野県支部は会員の意見も聞き、リスナーの拠り所として全国本部の存続を希求しましたが、解散となり、残念でした。
しかし、長野県支部員の総意により、地域としてこの組織を継続していきたい、そして会員を増やし、それを一般のリスナーも増やし、北京放送局との直接連携をお願いして、小さいながら日中友好の架け橋になるということで、単独組織の「長野県北京放送を聞く会」として継続発足しました。
2003年6月の定期総会の役員改選で事務局長を三井澄枝さんにお願いし、私は副会長の一人として、2000年から続けている機関紙「長野県北京放送を聞く会ニュース」の編集発行を引き続き担当していくこととなりました。
現在長野県北京放送を聞く会の会員は40名前後で推移していますが、老齢化により、ともすると減少気味になるので、機会があるごとに若い人たちの入会を勧めて会員の増加を図っていきたいと思います。
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