北京
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1929年12月、王占山さんは河北省唐山のある貧しい農家に生まれました。8歳の時に、児童団の団長となり、15歳から見張り番や情報のやり取りなどに携わり、16歳から正式に革命活動へ参加するようになりました。1948年8月、彼は中国共産党に加入し、遼瀋戦役、平津戦役や朝鮮戦争、対ベトナム自衛反撃戦に参加し、血みどろになって奮戦したことで、毛沢東主席と4回も会見しました。特に、朝鮮戦争で、彼は戦友とともに、四日間連続で陣地を守り、敵の38回の攻撃を撃退し、400人余りの敵を倒しました。彼は朝鮮戦争志願軍「二級戦闘英雄」のほか、「全国定年退職幹部先進個人」などの称号を獲得しました。また、朝鮮戦争における戦功によって、朝鮮から「一級国旗勲章」を授与されました。さらに王さんは河南省安陽軍事師団副師長クラス顧問、第4、5期全国人民代表大会代表を歴任しました。定年退職した後、彼は国防事業に熱心に取り組み、革命伝統の継承に力を尽くしています。
2019年10月1日、新中国成立70周年の閲兵活動が行われ、戦旗チームでは「金湯橋連」という旗が掲げられていました。この旗はかつて王さんの連隊の80名以上におよぶ戦友の命で守ってきたものでした。1949年1月15日、王さんの連隊は天津を攻撃する要衝である「金湯橋」の奪取を命じられ、国民党はそこで大軍を送り込みました。戦闘が始まった後、80人あまりの戦友が次々に亡くなり、最後に王さんと数人からなる突撃隊が敵のトーチカを爆撃して、ついに金湯橋を勝ち取りました。彼の連隊はその勇敢さを称えて、「金湯橋連」と命名されました。
1953年7月18日、米軍をはじめとする国連軍は飛行機や鉄砲などの武器を用いて、中国の志願軍と戦闘に入りました。四日間にわたって志願軍は敵の38回の攻撃を撃退し、400人余りの敵を倒しましたが、志願軍も多くの死傷者を出し、人数は76人にまで激減しました。王さんの連隊に残されたのは彼一人だけでした。重傷になった王さんは病院に運ばれ、数日間昏睡状態になり、全力の医療救助によって、ようやく命が救われました。戦争終結後、彼は志願軍本部から「二級戦闘英雄」という称号を授けられました。1953年、朝鮮の戦場から帰国したとき、彼は亡くなった戦友の遺族の生活を心配して、真っ先に訪れたのが彼らのふるさとでした。
定年退職した後の王さんは、十数か所の学校の校外指導員を担当したり、軍隊や企業などへ足を運んで、革命伝統の継承をテーマとする講演を数百回行ったり、経済的に困難な学生に寄付したりしています。王さんは「戦争の勝利は庶民の支えがなければあり得ないものだ。一人の党員として、彼らに恩返ししなければならない」と語りました。