筑紫哲也さんが(1)死去されたことを聞いて、大きなショックを受けました。ついこの2、3日前同僚に、筑紫さんのことが大好きだと言っただけに、筑紫さんの顔写真を見ながらこのことをすぐに信じることはできませんでした。
筑紫哲也さんとの出会いは、日本への留学中のことでした。1994年から98年まで4年間、昼間の学校や夜のアルバイトが終わってアパートに帰ると、いつも夜10時半になっていました。見ることができるテレビ番組は(2)深夜番組ばかりで、なんとなく筑紫哲也さんの番組が多かったです。世界各地で起きた事件に対する分析を、なるほどと頷きながら見ており、大いに啓発されたものでした。また、一日の疲れを忘れるひと時でもありました。
中でも、最も印象に残ったのは、1997年香港返還に関する報道でした。
返還日が迫るにつれて、各テレビ局では、(3)ニュース系の番組でそれに関する内容をさかんに取り上げるようになりました。非常に有名なキャスターが持つニュース番組もあって、このキャスターは見方が鋭い上、政治家のことについて鋭く追及したり、市民の不満を大胆にピックアップしたりすることで、多くのファンを持っていました。この時期の番組で、香港が無事帰還できるかどうか、返還された後繁栄を維持できるかどうかなど、返還を懸念する角度で連中のように取り上げていました。このような見方が大多数の日本人、少なくともアルバイト先の人たちと同じで、共感を得ているものだろうと思っていました。
しかし、私の感じ方はまったく違うものでした。百年ぶりの帰還であり、それに関する交渉も一年、二年で終わることができず、困難もたくさんありました。私から見れば、もとの持ち主に返すべきの土地をどうして潔く返さないかという思いがありました。でも、当時の多くのチャンネルでは、この角度から言う番組はほとんどありませんでした。同じ日本にいる中国からの留学生たちを取材して、中国人の感想を聞こうともしなかったようです。
相手の国の国民の思いをありのままに伝えず、世間に流されては、中日関係の改善は果たせるのかと心配し始めました。さらに、自由、公正、客観に事件を報道するというメディアのモラルに対しても、なんとなく疑うようになりました。ちょっと寂しくて、切ない思いがして、つまらない数日が過ぎていました。
このときに、筑紫哲也さんは香港にまつわる歴史を紹介した後、こう語りました。「中国は香港返還問題を適切に処理し、香港の発展に力を入れるに違いない。私たちは心配する必要がない」と。まったくその通りだと感心しました。そしてやっと分かってくれる日本の人が現れたと思いました。
数日間、胸につかえていた悔しさなどが取れ、爽快な気分になりました。以来、すっかり筑紫哲也さんや彼の番組を夢中になって見るようになりました。中日関係も、このような人があいだに立っているので、きっと順調に進められるに違いないと自信を持つようになりました。
社会責任、ものの見方、教養などメディア人としての素質、人格の魅力など多くを教わりました。私が帰国してから、偶然にもメディア仕事についてすでに10年が経とうとしています。仕事の面で、筑紫哲也さんの番組はまさに私の心の支えでした。
スタジオにまっすぐ立って、両手を前で組み、内外情勢を分析している筑紫哲也さんの真剣な顔が、これからもよく思い浮かべることでしょう。ご冥福を深くお祈りいたします。(朱丹陽)
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