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「私の体験した中日の友好交流」~詹志芳さん

2014-11-11 19:50:15     cri    


聞き手:王小燕、高橋恵子

 先週のゲスト、八木鉄さんの父親と同じく、CRI(北京放送)日本語放送の立ち上げに携わっていた呉克泰氏(旧名は詹世平)の御嬢さん・詹志芳さんにお話を伺います。ぜい沢なことに、名古屋を舞台に展開したピンポン外交の現場で通訳をなさっていた鉄さんに、今回のインタビューで、通訳を担当していただきました。

 同じ年に生まれ、2か月しか誕生日が違わない鉄さんと志芳は、同じ社宅で育ちました。国際放送局ですから世界各国の局員が一緒に住んでいました。そして、社宅の庭には、日本人のお母さんも2人いました。その日本人のお母さんに教わった民謡、ごちそうになった食べ物は、志芳さんにとって今も忘れられないものだと振り返ります。

 ところで、志芳さんは小さい時から「中国国内の東北人、河北人の家へ遊びに行くような感覚で、日本人の八木家へ良く遊びに行っていた」ものの、インタビューを受けた時点では日本には一度も行ったことがありませんでした。アメリカへ行く時に、トランジットで何度も日本を経由していたにもかかわらず。何が志芳さんをそのようにさせたのでしょうか。そして、この秋、ついに志芳さんは初めて日本に行きました。その時に実際に体験した「日本」とは?一北京市民として、志芳さんの目に映った中日友好への思いも伺いました。詳しくは、ぜひ番組をお聞きください。

【プロフィール】

詹志芳さん

 1950年 北京生まれ

 父親は台湾生まれで、中国国際放送局(北京放送)日本語組組長をしていた呉克泰さん。

 北京で小学校、中学を卒業後、1968年に知識青年として山西省運城臨猗県の農村に下放され、1973年に山西大学数学学部を卒業。

 放送科学研究所、中央テレビでの仕事を経て、現在は中華海外聯誼会理事で、中国身障者連合会代表大会代表。

八木鉄さん

 1950年北京生まれ(父親の八木寛さんが、1949年から中国国際放送局で対日放送の仕事に従事)
 1970年 両親と共に日本に帰国。
 東京の職業訓練学校を経て、就職し、中日のスポーツ交流の現場で   通訳としても活躍。
 1973年~1981年 日本国際貿易促進協会、
 1981年~2005年 東洋信託銀行
 2005年~2006年 蘇州日中架け橋経済発展有限公司
 2008年~2012年 コベルコ建機
 北京、蘇州、成都での長期駐在を経て、2012年に定年退職。

 現在は『光陰 矢の如し』と題した自分史を中国語と日本語の二か国語で執筆中。

 

 

 

 

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